劉備の上書
劉備はこの時、献帝に対して上書し、自分の意図がどのようなものであるかを表明しています。
やや長いのですが、この時の劉備の立場と決意を示す内容となっていますので、掲載します。
「臣は、臣下の列に加わるだけの才能しか持たないのに、上将軍の任務を担い、三軍の総督として、陛下の命令を外から奉じています。
しかし賊を掃討し、王室を安んじることができず、長い間、陛下の尊き教化が地に落ちて行くのを、防ぐことができていません。
そして天下のうちを、安泰にすることもできていません。
それを思うと、憂いのあまりに、横になっても落ち着かず、まるで頭痛を病んでいるかのようなありさまです。
先には董卓が混乱を作り出し、それからは凶悪な者たちが縦横に暴れ回り、国内は無惨な様子となっています。
陛下の聖徳と威霊によって、人も神も呼応し、あるいは忠義を奮い立たせて悪を討ち、あるいは天帝が罰を下されたため、暴虐の徒はあいついで倒れ、氷が解けるようにして消えていきました。
ただひとり曹操だけは、久しく首を晒されることもなく、国権を侵害して我が物とし、心が欲するままに乱行を極めています。
臣は昔、車騎将軍の董承と共に、曹操を討とうと図りましたが、機密が保たれず、董承は処刑されてしまいました。
臣は各地をさすらい、よりどころを失って、忠義を果たすことができませんでした。
こうして曹操に凶悪をきわめることを許し、皇后様が害され、皇子様が毒殺される結果を招いてしまいました。
(伏皇后とその皇子たちが、曹操に殺害された事件を指しています)
同盟を糾合し、力をふるいたいと願っておりますが、力が不足しており、年月が経過しても、成果をあげられないでいます。
いつも命を落とし、国家から受けた恩に報いることができなくなることを恐れ、寝ても覚めても嘆き続け、朝から夜まで、深く憂いを抱いています。
いま、臣の家来たちは申しています。
古の『虞書』に『あつく九族(数代にわたる親族)を叙し、庶の明しき人を輔翼の臣(補佐役)となす』とあります。
古代の五人の帝王は、損益をかんがみて、昔から続いていた各種の制度を変更しましたが、九族を大切にすることだけは変わりませんでした。
周は夏・殷(古代王朝)の二代を参考にして国を建てた結果、晋や鄭(諸侯)の補佐を受ける幸福を得ています。
高祖(劉邦)さまは皇帝の位につかれると、子弟を尊んで王とし、大いに九ヶ国を開かれました。
この結果、呂氏一族(劉邦の妻の一族で、帝位を奪おうとした)を斬り、本家を安定させることができました。
いま、曹操は正しきを憎み、多くの仲間を集め、仇なす心を隠していますが、簒奪(帝位の奪取)の意図はすでにあきらかです。
皇室は微弱となり、皇族は官位についていませんので、古のやり方を参考にし、朝廷の外にいる者に、仮に権限を与えるという制度に基づいて、臣を大司馬、漢中王に推挙いたしました。
臣は伏して我が身を何度も省みましたが、国家の厚恩を受け、一地方を統治する任務を受けながら、成果をあげるほどには力を発揮できていません。
与えられた官位はすでに分を過ぎていますのに、さらに高い地位を得て、罪や非難を重ねるのは、不適当かと存じます。
しかし家来たちは、道義をかかげて臣に迫ってきました。
臣は一歩引き下がって考えますに、逆賊はさらし首にされることもなく、国難はいまだやまず、宗廟は傾き、社稷(国家)はまさに消滅しようとしています。
王室の復興は、臣が憂いを抱き、責任を感じ、身を捧げて成し遂げなければならない任務となっています。
もし事態の変化に対応し、適した方法をとることによって、聖朝を安寧に導けますならば、水火のうちにおもむくことも、ためらいはしません。
平素のあるべき制度を考慮しながらも、あえてそれを冒し、後悔をふせぎたいと思います。
そこで衆議に従い、印璽を拝受して、国威を高揚することにいたしました。
仰いでこの爵号を思いますれば、位は高く、恩寵が厚いものとなっています。
伏してこの恩に報いることを考えますれば、憂いは深く、責任は重大です。
驚き恐れ、息を詰まらせ、まるで深い谷に臨むような気持ちです。
力を尽くし、誠意を捧げ、六軍を奮い立たせ、正義の士を統制いたします。
そして天の意志にこたえ、時に従い、逆賊を撲滅し、国家を安寧に導き、万分の一でもご恩に報いる所存です。
つつしんで上奏し、奉ります」
そして劉備は左将軍と宣城亭候の印綬を返還し、成都に帰還して王府を開きます。
こうして容儀を整えた劉備は、より鮮明に、天下に対し、曹操を打倒して漢王朝を復興させることを誓ったのでした。
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