劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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国名について

この国は一般に「蜀」や「蜀漢しょくかん」と呼ばれますが、劉備たち自身はこのように名のったことはなく、「季漢きかん」と称することがありました。

これは「漢の末流」といった意味になります。

こうして劉備はついに皇帝にまで登りつめますが、荊州を失ったことで国は小さくなっており、前途は多難でした。

劉備の文章

皇帝になった時、劉備は次のような文章を発表しています。

「建安二十六年(221年)、四月丙午ひのえうま(6日)、皇帝劉備はあえてくろおうしを用い、皇天の上帝と后土こうど神祇じんぎに明白に報告いたします。

漢は天下を有し、その歴数(天命)は無限です。

先に王莽おうもうが簒奪をした時に、光武帝(後漢の祖)は怒りに震えてこれを誅伐し、社稷が再び存続することになりました。

曹操は武力を頼んで残忍な行いをし、皇后を殺戮し、天下にはびこって国を乱し、天道をかえりみることがありませんでした。

曹操の子・曹丕はその凶逆な心を抱き、神器を盗み取りました。

群臣や将兵は、社稷が失われたからには、私がこれを修復し、二祖(高祖と光武帝)の後を継承し、天罰を行うべきだと主張します。

私には徳がなく、帝位をはずかしめることを恐れ、民にも相談し、外は蛮夷の君長(異民族の指導者)に及ぶまで、意見を聴取しました。

みなこぞって『天命にこたえないわけにはいかない。

祖先から伝わった事業を、長い間放置してはいけない。

天下には主がなくてはならない』と申しました。

全土の望みは、私ひとりにかかっております。

私は天の明らかな命令を畏れ、また、漢の天下が地に堕ちんとすることをおそれ、謹んで吉日を選び、百僚とともに壇にのぼり、皇帝の印璽を拝受しました。

儀式を修め、これを天帝に報告いたします。

神々よ、漢家に天子の位を授け、長く四海を安寧にしてくださいますように」

体制を整える

こうして皇帝になった劉備は、大赦を行い、年号を改めて章武としました。

そして諸葛亮を丞相じょうしょう(首相)とし、許靖を司徒しと(大臣)とし、百官を設置します。

また宗廟を建立し、高祖以下を廟に合祀しています。

そして皇后に呉氏を立て、劉禅を皇太子としました。

その他に、子の劉永を王に、劉理をりょう王に取り立てます。

このようにして、劉備は蜀という国家の体制を整えました。

張飛が殺害される

劉備は荊州を奪還し、関羽の復讐をするため、遠征を計画していました。

それに車騎将軍となっていた張飛も参戦する予定になっていましたが、出陣する前に殺害されてしまいます。

張飛は関羽とは違い、同僚たちとはうまくやっていましたが、部下に対しては厳しくあたり、時に虐待をすることもありました。

そして虐待した者を、そのまま側に仕えさせていたため、いずれ命取りになるからやめるように、と劉備から注意を受けていたのですが、改めることができず、ついに部下の手によって殺害されてしまったのでした。

こうして劉備は関羽に続いて、張飛までも失ってしまいます。

人材が減少する

この頃には、劉備の参謀となっていた法正、そして黄忠といった、漢中の奪取に貢献した者たちが、次々と死去しています。

こうして劉備軍の勢威は衰えていきましたが、劉備は荊州への遠征計画を、やめようとはしませんでした。

元より、益州から荊州を攻めるのには、大きな困難がありました。

益州と荊州の間には険しい山岳地帯があり、河川にも阻まれるため、交通の便がよくありません。

このため、物資の輸送が困難で、補給路を確保するためには、各地に分散して拠点を設け、守らなければなりませんでした。

この結果、兵力を一箇所に集中しづらくなり、各個に撃破されてしまう可能性が高まります。

そして蜀と呉が戦うと、その隙を魏に利用される懸念もありました。

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