劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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水魚の交わり

劉備は一度の会見で諸葛亮の才能を知り、その後、交情が親密になっていきます。

劉備の陣営には、関羽や張飛を初めとした、ずば抜けた戦闘力を持つ人材はそろっていたのですが、戦略を立てられる者が不足しており、それが勢力基盤を得られない原因となっていました。

ですので劉備は、ようやく求めていた人材が得られたと、諸葛亮に会って強く感じるところがあったのでした。

劉備が急激に諸葛亮と親睦を深めていくにつれ、従来からの側近である関羽と張飛は、不機嫌になっていきました。

なので劉備は「わしに孔明が必要なのは、魚が水を求めるようなものなのだ。

だからおまえたちは、二度と不満を口にしたりしないでほしい」と言いました。

これを聞いた関羽と張飛は、以後は何も言わず、諸葛亮を受け入れるようになります。

この劉備のたとえから、両者の関係は「水魚すいぎょの交わり」と呼ばれるようになりました。

ちなみに、諸葛亮はしばらく後で、関羽を「ひげどの」というあだ名で呼ぶようになっていますので、やがて親しくなっていったようです。

許都の襲撃を進言するも、取り上げられず

207年になると、曹操は北の辺境地域に住む、烏桓族の討伐に向かいました。

このため、劉備は手薄になった許都を襲撃するようにと劉表に進言しましたが、劉表は採用しませんでした。

しかし曹操が討伐を終えて帰還してくると、劉表は劉備に対し「君の進言を採用しなかったために、大きな好機を逃してしまった」と嘆きます。

劉備はこれに対し、「いま天下は分裂しており、毎日のように戦いが続いています。

ですので、これが最後の機会だということはありません。

今後もまだ機会がありますので、これはまだ、残念に思うほどのことではありません」と返事をしました。

しかし実際のところ、好機というのはそう何度もあるものではなく、人の寿命にも限りがあります。

この後で、劉表は病に倒れました。

曹操が南征を開始する

烏桓族の討伐に成功し、北方の情勢を安定させた曹操は、208年になると、天下統一を成し遂げるため、大軍を率いて南征を開始します。

この情勢下で、病に倒れていた劉表は亡くなり、荊州は混乱に陥ります。

劉表には、劉と劉そうという二人の息子がいましたが、長男の劉琦を粗略に扱い、次男の劉琮をかわいがるようになっていました。

このため、劉琦は諸葛亮に助言を求め、父の元を離れて江夏こうかに駐屯するようになっています。

このような経緯があったので、劉表が亡くなると、兄弟が力を合わせて曹操を迎え討つ可能性は、全くありませんでした。

劉琮が降伏する

やがて劉琮が、劉表の後継者となることが決まりますが、劉琮は前線にいる劉備に黙って、曹操に降伏を申し入れてしまいます。

劉備はこのとき、はん城に駐屯していましたが、何も知らせを受けておらず、曹操が宛に迫って来てから、はじめて情勢を知らされました。

劉琮は事後報告のために宋忠そうちゅうを使者に送ってきましたが、ないがしろにされた劉備は腹を立て、「君たちのやり方はこんなものなのか。

早くから相談をせず、災いが迫ってから知らせるとは、あまりにひどいではないか」と言いました。

そして刀を引き寄せて宋忠につきつけ、「いま君の首を斬ったとしても、怒りを解くことはできない。

それに大丈夫だいじょうふたる者が、別れに際して君らのような者たちを殺害するのは、恥になる」と言って、宋忠を立ち去らせました。

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