劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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趙雲と張飛の活躍

この時、劉備は妻子とはぐれたのですが、趙雲は敵軍が押しよせる中で、その身に幼子を抱き、救出に成功します。

この時に救われた子が劉禅であり、やがて劉備の後を継ぐことになります。

一方、張飛は劉備から二十騎を預けられ、追撃を防ぐ役割を担いました。

張飛は川を盾にし、橋を切り落とさせ、目をいからせてほこを小脇に抱えます。

そして「張益徳えきとくである! かかってくるがよい! 死を賭して戦おうぞ!」と呼ばわると、曹操軍は怖れをなし、近づくことができませんでした。

この張飛の働きによって、劉備は追撃を振り切って、逃げのびることができたのでした。

劉備地図8

関羽、劉琦と合流する

劉備は各地を逃げ回り、漢津かんしんにさしかかったところで、関羽が率いる船団と合流しました。

そして沔河べんがを渡り、劉琦が率いる一万あまりの軍勢と出会い、ともに夏口かこうにまで移動します。

劉琦はかつて、諸葛亮に助言を受けて江夏太守となった経緯があり、劉備とは友好的な関係でした。

こうして劉備は荊州の中部に移動し、劉琦と合わせて二万の軍勢を擁し、体制を立て直します。

魯粛と出会う

劉備が逃亡していた時期に、呉の重臣である魯粛ろしゅくが、荊州の偵察にきていました。

魯粛は劉琮と劉琦を仲裁し、曹操に対抗するように説くつもりだったのですが、すでに劉琮が降伏してしまったため、策を講じることができなくなっていました。

このため、劉備を訪ねて会談し、呉と同盟を結んで曹操に対抗することを提案します。

元より、諸葛亮は呉と同盟を結ぶことを勧めていましたので、劉備はこれを受け入れました。

そして諸葛亮が呉におもむき、この話をまとめることになります。

孫権が戦いを決断する

この時、呉の主である孫権は、状況を観望し、曹操に降伏したものか、それとも戦ったものか、迷っていました。

曹操は「わしは八十万の大軍を擁している。降伏しない場合は呉を討伐する」と告げ、圧迫してきていました。

呉の兵力は全部で十万程度でしたので、対抗するのは容易ではありません。

諸葛亮はこれに対し、曹操軍は遠征によって疲弊していること、水戦には不慣れであること、荊州の人士は曹操に心からは従っていないことを指摘し、劉備と力を合わせれば勝機は充分にある、と説きます。

そして孫権の腹心である周瑜しゅうゆや魯粛もまた、同様の指摘をして主戦論を唱えたため、孫権は劉備と同盟を結び、曹操と戦うことを決意しました。

こうして曹操対劉備・孫権連合という構図ができあがります。

赤壁の戦いが始まる

呉は周瑜と程普ていふを指揮官とし、三万の軍勢を出撃させました。

これに劉備軍が加わり、総勢は五万程度となります。

一方で曹操は、二十万の軍勢を率いて長江を下ってきました。

両軍は長江沿いの赤壁せきへきの地で遭遇し、そこで戦いとなります。

偽計と焼き打ち

呉軍はこの時、武将の黄蓋こうがいが曹操に降伏するふりをして接近し、船に火をつけて突撃し、曹操の船団を焼き払う、という計略を用いることにします。

黄蓋は呉に長年仕えていた宿将でしたので、曹操は降伏は本当なのかといぶかしみつつも、莫大な報償を約束し、これを受け入れました。

そして黄蓋が曹操の船団に近づき、計画通りに自軍の船に火をつけて突入させすると、果たして曹操の船団も、そして陸上の陣営までもが火に包まれ、多くの被害を与えます。

そうして混乱したところに、周瑜や劉備の部隊が強襲をしかけ、曹操軍をおおいに撃破しました。

曹操はわずかな兵を連れ、難路を抜け、かろうじて撤退しています。

こうして連合軍は、数倍の兵力を擁する曹操を打ち破り、情勢を大きく変えることに成功しました。

劉備にとっては、これが初めての曹操に対する勝利となりました。

演義では、ここで関羽が曹操を追撃しつつも見逃し、かつての恩を返し、曹操への感情を断ち切る、という演出がなされています。

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