劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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諸葛亮と龐統の存在を知る

劉備が新野に駐屯していた頃、司馬徽しばきという荊州の名士と会い、世間話をしたことがありました。

その時に司馬徽は「儒学者や俗人たちには、なかなか重要なことはわからないものです。

時勢の要点を見抜くものこそが英傑ですが、このあたりには臥龍がりゅう鳳雛ほうすうがいます」と劉備に話しました。

劉備がそれは誰かとたずねると、「諸葛孔明と龐士元です」と司馬徽が答え、これによって劉備ははじめて、諸葛亮と龐統ほうとうの存在を知ったのでした。

徐庶に諸葛亮を訪ねるように薦められる

劉備のところには、荊州の士人である徐庶じょしょが出入りをしていましたが、劉備は彼のことを、有能な人物だと評価していました。

徐庶は諸葛亮の友人で、その才能を知っていたので、ある時「諸葛孔明は臥龍です。

将軍は、彼に会いたいと思われますか?」と劉備にたずねます。

劉備は興味を抱き「君が連れてきてくれないか」と言いました。

すると徐庶は「彼には、こちらから会いに行けば会えますが、無理に連れてくることはできません。

将軍が車をまげて、訪問されるのがよろしいでしょう」と答えました。

劉備は、徐庶がそこまで言うのなら、と思ったのか、自分から諸葛亮に会いに行くことにします。

三顧の礼

劉備はそれから諸葛亮を訪ねましたが、なかなか会うことができず、三度目の訪問でようやく顔を合わせることができました。

これが「三顧の礼」の語源となっています。

この時、劉備は左将軍という高位にあり、国中に名を知られる英傑の一人でした。

その上、諸葛亮より10才以上も年上でしたので、はるかに目上の存在だったと言えます。

その劉備の方から何度も訪ねてきたというのは、無名で、無位無官の諸葛亮にとっては、まさに破格の待遇でした。

このことが、腰が重かった諸葛亮を動かす上で、大きな要因になったと思われます。

そしてこの二人の出会いによって、その後の歴史が変わっていくことになりました。

諸葛亮に質問をする

劉備はこの時、諸葛亮に次のようにたずねました。

「漢王朝は傾き崩れ、姦臣かんしん(曹操)が天命を盗み、皇帝は都を離れておられる。

わしは自分の徳や力を思慮に入れず、天下に大義を浸透させたいと願っている。

しかし知恵も術策も不足しているので、結局は成功せず、今に至っている。

いかし、今なお志は捨て切れていない。

君はどうすればよいと思う?」

天下三分の計

諸葛亮は、次のように答えました。

「董卓が台頭して以来、豪傑が次々と蜂起し、州をまたがり郡をつらね、独立割拠した者は、数え切れないほどになりました。

曹操は袁紹に比べますと、名声は小さく、軍勢も少ないありさまでした。

しかしながら、曹操が袁紹に勝利し、弱者から強者になったのは、天の与えた時節によるものだけでなく、人間が立てる計略のおかげです。

いま、曹操は百万の大軍を備え、天子を擁立して諸侯に命令を発しています。

これはもはや、対等に戦える相手ではありません。

一方で、孫権は江東を支配し、すでに三代をへており、国家は堅固で民はなついており、賢人や有能な者たちが、彼の手足となって力を尽くしています。

これは味方とすべきで、敵対してはなりません。

この荊州は、北は漢水とべん水にまたがり、その経済圏は南海にまで到達し、東は呉につらなり、西は・蜀に通じています。

これこそ武力の基盤とするべき地ですが、いまの領主(劉表)では、持ちこたえることができません。

ここは天が将軍(劉備)のご用のために供している土地だと言えますが、将軍にその意志がおありでしょうか?

一方で西の益州は、堅固な要塞の地であり、豊かな平野が千里も広がり、天のくらとも呼べるところです。

高祖(劉邦)はここを基盤にして、帝業を完成させました。

この地の領主・劉璋りゅうしょうは暗愚で、張魯ちょうろと北で敵対し、人口が多く国が豊かなのに、民の暮らしをかえりみないので、心ある人士は名君を得ることを願っています。

将軍は皇室の後裔である上に、信義が天下に聞こえ渡っており、英雄たちを手もとに抱え、渇いた者が水を欲するようにして、賢者を渇望しておられます。

もし荊州と益州を支配され、その要害を保ち、西方の諸部族を手懐け、南方の異民族を慰撫なさり、外には孫権と同盟し、内では政治を修められ、天下に変事があれば、上将に命じて荊州の軍をえんらく(首都圏の南側)に向かわせ、将軍ご自身が秦川しんせん(首都圏の西側)に出撃なさったならば、民衆は食糧と水筒を携え、将軍を歓迎するでしょう。

このようになされば、覇業が成就し、漢王朝は復興するでしょう」

これを聞いた劉備は「なるほど」とうなずきました。

諸葛亮が語った戦略は、大陸全土を視野に入れた、雄大なものでした。

これがいわゆる、「天下三分の計」と呼ばれる戦略案です。

天下三分の計

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