曹操が呉を攻撃し、劉備は蜀を離れるふりをする
やがて212年になると、曹操が呉の討伐を実施したので、劉備が動く機会が訪れました。
孫権が劉備に救援を求めて来たので、それを理由に、蜀を去るふりをします。
劉備は劉璋に、次のように伝えました。
「曹操が呉を討とうとし、呉に危険が差し迫っています。
孫氏と私は、唇と歯のように密接な関係にあり、また、楽進が青泥において、関羽と対峙しています。
いま関羽を救援に行かなければ、楽進が勝利し、州境が侵され、その憂いは張魯よりも大きいものになります。
張魯は守勢に徹していますので、心配するにはおよびません」
援助の少なさを理由に劉璋を批判する
さらに劉備は劉璋に対し、一万の兵士と、軍需物資の支援を求めました。
しかしすでに多くの援助をしていたためか、劉璋は四千の兵と、要求の半分の物資のみを送って来ます。
劉備はこれを利用して、劉璋を批判し、配下の将兵たちに、蜀への敵対心をたきつけにかかりました。
「わしは益州のために強敵を討伐しようとし、このために将兵は疲労し、落ちついた暮らしができないでいる。
いま劉璋は、蔵に財宝を積み上げながら、報償を惜しんでいる。
士大夫に死力を尽くすことを望みながら、よくそんなことができるものだ」
張松が処刑され、劉備と劉璋は決裂する
一方、張松は劉備が本気で荊州に戻るつもりだと勘違いをし、劉備と法正に手紙を送りました。
「いまは大事な時で、功業が成し遂げられようとしています。どうしてこれを放り出し、立ち去られるのですか」
すると、張松の兄である張粛が、災いが自分にも及ぶことを恐れ、劉璋に対し、張松が進めていた陰謀を暴露しました。
このため、劉璋は張松を捕らえて処刑し、ようやく劉備の本意を知ることとなります。
劉備が挙兵する
劉璋は関所を守備する部将たちに書状を送り、二度と劉備と関わりを持ってはならないと通達しました。
これを知った劉備は激怒し、楊壊と高沛を呼び出し、無礼のかどで糾弾し、そのまま斬り捨てています。
こうして劉備と劉璋は、はっきりとした敵対関係となり、劉備は挙兵して攻撃を開始しました。
劉備は黄忠に先鋒を命じると、すぐに関中に到達し、諸将と兵士たちの妻子を人質にします。
そしてかつて劉璋と会見をした、涪を占拠しました。
劉璋は劉璝、冷苞、張任、鄧賢らを派遣して涪を守らせようとしましたが、みな劉備に撃破され、退却して緜竹に立てこもりました。
こうして劉備ははじめて侵略者としてふるまいましたが、その軍は強く、劉璋を圧倒します。
これらの戦いで、黄忠は全軍の先頭に立って敵を次々と撃破し、頭角を現していきました。
そして魏延もまた、活躍しています。
龐統に苦言を呈される
劉備は涪を占拠すると、酒を盛り、音楽を鳴らして大宴会を催します。
そして龐統に向かって、「今日の集まりは実に楽しい」と言いました。
すると龐統は「他人の国を征伐し、それを喜んでおられるのは、仁者のふるまいだとは言えません」と苦言を呈します。
劉備はすでに酔っていましたので、この発言に腹を立て「周の武王が紂(暴君)を討伐するときに、歌をうたい、踊りを舞うものがいたが、これは仁者のいくさではなかったのか。
君の言葉は的外れだ。
すぐに出ていけ」と言いました。
すると龐統は、言われるままに出ていきましたが、劉備はすぐに後悔し、戻ってくるように頼みます。
龐統は素知らぬ顔で宴席に戻ってきて、劉備に謝罪はしませんでした。
そして平然と飲み食いを続けます。
劉備が龐統に「先ほどの議論では、誰が間違っていただろうか?」と問いました。
龐統が「君臣ともに間違っていました」と答えたので、劉備は大笑いをし、初めと同じように酒宴を楽しんでいます。
この時、劉備ははじめて侵略者として行動していましたが、他人の国を我が物にしようとする悪事に対し、内心では気に病むところがあったのでしょう。
このため、涪を占拠するや宴会を始め、憂さ晴らしをしたくなったのかもしれません。
龐統はその様子を見て、劉備の心情を察しつつも、たしなめたのだと思われます。
このようにして、この時期の龐統は劉備を策略だけでなく、精神的な面でも支えていたのでした。
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