孫権と和睦する
孫権は劉備が白帝にどとまっていると聞き、再び攻めこんでくるのではないかと恐れました。
このため、使者を送って和睦を求めて来ます。
蜀はすぐに軍勢を立て直せるような状況ではなかったので、劉備はこれを受け入れ、宗瑋を送って返事をさせました。
反乱が起きる
この年の12月、追い打ちをかけるようにして、漢嘉太守の黄元が反乱を起こします。
この頃、劉備は病にかかっていたのですが、黄元は諸葛亮とうまくいっていなかったので、劉備がこのまま亡くなって諸葛亮が主導権を握るようになると、自分の立場が危うくなると考え、反乱を決意したのでした。
このように、蜀では劉備の後をにらんだ動きが、早くも始まっています。
諸葛亮が永安に移動し、黄元が討伐される
223年の2月になると、劉備は病が重くなったので、諸葛亮を永安へと呼び寄せます。
すると諸葛亮が不在になった隙をついて黄元が動き出し、臨邛県を攻撃してきました。
これに対し、成都に残っていた者たちが協議し、将軍の陳曶を討伐に向かわせて黄元を撃破します。
そして黄元が長江を下り、逃走をはかったところを先回りして捕縛し、処刑しました。
こうして騒動は収まりましたが、劉備の病はいよいよ重くなり、後事を諸葛亮に託すことにします。
劉備の遺言
劉備は諸葛亮に対し、次のように言いました。
「君の才能は曹丕の十倍はあり、きっと国家を安んじ、最後には大事業を成し遂げることができるだろう。
もしも後継者が補佐するに足りる者であれば、これを補佐してやってほしい。
もしも才能がないのなら、君が国を奪うがよい」
これに対し諸葛亮は涙を流し「臣は心からの股肱(手足)として力を尽くし、忠誠の操を捧げましょう。
最後には命を捨てる所存です」と答えました。
劉備の発言の意図
「国を奪うがよい」というのは、君主が臣下に言ってはいけない言葉だった、と批判するむきもあります。
劉備のこの言葉は、その性格からして、反乱を教唆したのではなく、諸葛亮を実の家族のように思っているから、たとえ諸葛亮が君主になったとしても構わないと、そのような意識を伝えたのだと思われます。
それを証拠づけるように、劉備は劉禅に対し「汝は丞相(諸葛亮)とともに仕事をし、父と思って仕えよ」と詔を下しました。
こうして劉備は、自分が亡き後は劉禅を君主とし、諸葛亮にそれを支えさせる、という体制を残すことにしたのでした。
この時点では、これが最善手だったと言えます。
また、劉禅の弟の劉永に対しても「わしの死後、おまえたち兄弟は丞相を父と思って仕え、大臣たちが丞相に協力してことをなすように努めよ」とも言い残しています。
劉備はこれほどに諸葛亮を頼りにし、蜀を守り、魏を討ち破ってくれることを期待したのでした。
血のつながりがなくとも、人は家族のように親しみ合い、ともに歩んで行くことができる。
それが劉備の生涯を貫いた、信念だったのでした。
だからこそ、関羽は栄達を捨てて劉備の元に戻り、諸葛亮はその生涯を、蜀を支えるために捧げたのでした。
劉禅への戒め
劉備はこの他に、劉禅を戒める言葉も残しています。
「朕が病にかかった時、はじめは腹を下しただけだと思っていたが、その後、他の病気も加わり、もはや回復することはなさそうである。
人間、五十ともなれば夭折とは言わず、もう六十あまりなのだから、何を恨むこともない。
そして自らをいたむこともないが、ただ、おまえたち兄弟のことだけが心配である。
射君が参り、こう申していた。
丞相はおまえたちの知力がとても大きく、進歩が期待以上であると感嘆しているという。
それが本当であるのなら、私にはもう、何も心配することはない。
努力せよ、努力せよ。
悪事はたとえ小さくともするな。
善事はたとえ小さくとも、せずにいてはならない。
賢明さと徳義、これだけが人を感服させることができるのだ。
おまえの父は徳が薄いから、これを見習ってはならぬ。
『漢書』と『礼記』を読み、時間がある時には諸氏と『六韜(兵法書)』『商君書』を読みこなし、知恵を増すようにせよ。
聞けば、丞相は『申子』『韓非子』『管子』『六韜』を一通ずつ書写し終わったが、まだ送らないうちに、なくしてしまったそうだ。
自分でもう一度これらを求め、よく学ぶように」
このように、劉禅に徳を身につけ、知恵に長じるようにと求めたのでした。
そして父を見習ってはならぬ、としたのは、各勢力を渡り歩き、劉璋から国を奪ったことに、負い目を感じていたからなのかもしれません。
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