寝返りがあいつぎ、荊州は呉の手に落ちる
呂蒙らが関羽の統率下にあった武将たちに寝返りを促すと、糜芳や傅士仁らがこれに応じ、城を明け渡して降伏します。
そして将兵たちの妻子が人質に取られ、これによって関羽軍の士気が大きく低下しました。
これは関羽が他の武将たちと不仲であり、充分に統率できていなかったのが原因でした。
降伏しなかった郡県も、呉の攻撃を受けて陥落し、関羽は短期間ですっかりと拠点を失ってしまいます。
これは陸遜が攻撃をしかける前に、関羽に対し「あなたを慕っており、あなたの指導を受けたいと思っています」などといった内容の手紙を送り、油断をさせていたのが原因でした。
このため、関羽は呉に対する備えを解き、樊城の攻撃に全力を注いでいたのです。
つまり関羽は陸遜に、いっぱい食わされたのでした。
関羽は撤退するも、処刑される
こうして関羽の勢威が落ちたところに、魏は追加で徐晃を援軍に送ってきました。
将兵たちが動揺していたためか、関羽は徐晃に敗れ、やむなく樊城から撤退します。
これ以前に、上庸にいる劉封と孟達に援軍を求めていましたが、彼らはやって来ず、関羽は孤立しました。
関羽はわずかな供回りを連れ、まだ呉に取られていない麦城に立ち寄り、そこから益州に向かいますが、臨沮に到達したところで、呉軍に捕縛されてしまいます。
そしてすぐに孫権の命によって処刑され、その首は曹操の元に送られました。
こうして蜀は、荊州を失陥してしまいます。
旗揚げからともに戦って来た関羽を失うのは、劉備にとっては片腕をもぎとられたようなものであり、非常に大きな打撃となりました。
これに劉備は激しく怒り、呉への攻撃を決意します。
劉備は漢の復興を掲げて曹操を攻撃しましたが、呉はそんな劉備軍に対して攻撃をしかけてきました。
これは劉備の掲げた大義に対する挑戦でもあり、このためにいっそう、劉備は呉を許すことはできなかったのです。
曹操が死去し、曹丕が帝位につく
220年の3月になると、かねてより病にかかっていた曹操が、死去しました。
曹操は、劉備との決着をつけきれれないままに世を去ったことになります。
このように、関羽の死を契機として、時代を象徴する人物たちが、次々と歴史の舞台から姿を消していく時期に入っていきました。
曹操の後を継いだ曹丕は、間もなく献帝に譲位を迫り、魏の皇帝に即位します。
こうして二百年続いた後漢王朝が、滅亡しました。
やがて蜀には、献帝が殺害されたという誤報が伝わったため、劉備は喪を発し、孝愍皇帝の諡号をたてまつります。
これより以後、いたるところで多くの瑞祥があったと報告され、劉備に仕える学者たちが、帝位につくようにと勧めました。
蜀の皇帝となる
やがて諸葛亮や糜竺、許靖といった重臣たちが劉備に上奏文をたてまつり、簒奪をした曹丕を非難し、漢王朝の末裔である劉備が帝位につき、宗廟を継承するべきだと述べました。
それでも劉備は帝位につくことを渋っていたのですが、諸葛亮に説得され、成都の武担で即位しています。
諸葛亮はこの時、臣下たちが劉備についてきているのは、それぞれに小さな恩賞(領地や地位)を求めてのことで、劉備が即位し、これを与えようとしなければ、やがて臣下たちは去ってしまう、といった趣旨の発言をし、劉備に決意を促しました。
漢が滅び、魏が建国された以上、曹丕と同じ皇帝の地位につかないと、劉備の求心力が低下し、蜀を維持していくのが困難になってしまう。
それが劉備が皇帝になったことの、理由の一つでした。
またこれ以外にも、途絶えかけた漢の社稷(国家)を引きつぎ、王統を継承し、人心の安定をはかるのは、この時点で、劉氏一族の中で最も実力を備えていた劉備にとっては、果たすべき義務ともなっていました。
こうした事情によって、劉備は蜀の皇帝になります。
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