董和は劉璋に仕え、益州の政治家として活躍した人物です。
清廉で私腹を肥やさず、誠実な性格だったので民に慕われ、統治を安定させることに成功しました。
後に劉備の幕僚となってからは、諸葛亮と親しくなり、後々にまでも、その名が語られる存在となります。
この文章では、そんな董和の生涯を書いています。
【成都にある董和の塑像】
南郡に生まれる
董和は字を幼宰といい、荊州の南郡、枝江県の出身でした。
生年は不明となっています。
先祖は益州の巴郡、江州の人でした。
この縁によってか、董和は後漢の末期になると、一族を率いて益州に移住しています。
各地の長官を勤め、風紀を引きしめる
益州の牧(長官)である劉璋は、董和を迎えると、牛鞞や江原の県長や、成都の県令に任命し、地方官として起用しました。
「県長」は規模の小さな県を治める地位で、「県令」は大きな県を治める地位ですので、これによって、董和の地位が高まっていったことがわかります。
蜀は豊かな土地柄でしたので、風俗は奢侈に流れ、財産を持つ者は勝手に諸侯の衣服をまとうようになります。
そして贅沢な食事をし、冠婚葬祭も豪華にしたために、家産を傾けるありさまでした。
このような風潮の中、董和は自ら率先して倹約に努め、粗衣粗食に甘んじ、身分を超えた行いを禁止します。
そうして規制を強化したので、彼の赴任した県では風俗が改まり、法を恐れ、違反するものもいなくなりました。
豪族たちの反発を受けるも、官民に留任を求められる
しかし、県境にいる豪族たちは、董和の厳しい統治を嫌います。
彼らは劉璋に進言し、董和を巴東の属国都尉(辺境地帯の長官)に転任させ、追い払おうとしました。
すると官吏も民衆も、老いも若きも、ともにつれだって役所を訪れ、董和の留任を懇願します。
それが数千人にものぼったため、劉璋は二年の間、董和を留任することにしました。
これほどに、董和は土地の人々から慕われていたのでした。
昇進してさらに信頼を得る
董和が巴東から戻ると、今度は益州の太守に昇進します。
こうして各地の長官を歴任し、地位が上っても、董和の清潔さと倹約ぶりは、以前と変わるところがありませんでした。
異民族と協調しながら統治を行い、誠意のある態度を貫いたので、益州の南方地域の住民は董和を敬愛し、信頼します。
これによって、反乱が起こる心配がなくなりました。
董和は政治家として、優れた手腕を持っていたのだと言えます。
劉備に仕え、諸葛亮と親しくなる
やがて劉備が蜀を平定し、劉璋に代わって益州の主になると、董和を召し出し、掌軍中郎将(上級指揮官)に任命しました。
そして軍師将軍の諸葛亮と一緒に、左将軍・大司馬(劉備の官職)の、幕府の仕事を担当させています。
董和は役に立つことを実施するように勧め、そうでないことをやめさせる判断力を備えており、諸葛亮と良好な関係を築きます。
董和は官職について以来、外では異民族の土地を治め、内では政治の中枢に参与し、そのような働きは二十年以上にも及びました。
しかし、亡くなった時には、家にわずかな財産も蓄えていませんでした。
董和は生涯にわたって、清廉な人物だったのです。
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