費禕は蜀に仕え、三代目の宰相になった人物です。
優れた理解力や記憶力を備えており、政務を処理する能力が、人なみ外れて秀でていました。
このため諸葛亮に引き立てられ、やがて大将軍の地位につき、蜀の軍事と政治を担います。
しかし人に寛容で、警戒心が乏しかったため、魏の刺客によって暗殺されてしました。
この文章では、そんな費禕の生涯を書いています。
【費禕の塑像】
荊州に生まれる
費禕は字を文偉といい、荊州の江夏郡、鄳県の出身でした。
生年は不明となっています。
費禕は幼い頃に父を失ったので、叔父の費白仁のもとへ身を寄せました。
この費白仁のおばは、益州の牧(長官)・劉璋の母でした。
このようなつながりがあったため、劉璋は使者を送って費白仁を迎えさせます。
これを受け、費白仁は費禕を連れて遊学し、蜀に移住したのでした。
このような理由で、費禕は蜀の人になっています。
有望な若手として期待を受ける
費禕が移ってからしばらくして、劉備が蜀を平定しました。
費禕はそのまま益州にとどまり、やがて汝南郡の許淑龍や、南郡の董允ら、期待されていた若手と同等の名声を得ています。
中でも費禕と董允は、親しく付き合っていました。
この頃、蜀の高官である許靖が息子を亡くしたので、董允は費禕と一緒に、葬儀場へ行こうとしました。
董允が、父の董和に馬車を用意してくれるように頼むと、董和は鹿車という、鹿が一頭乗るのがやっとというくらいの、小さな馬車をあてがいました。
馬車が粗末なものだったので、董允は乗ることを渋りましたが、費禕は嫌がることもなく、すぐに乗り込みます。
葬儀場に到着すると、諸葛亮を初めとした高官たちが集まっており、立派な馬車が並んでいました。
このため、董允は不安げな様子を見せましたが、費禕の方は馬車のことなど気にせず、ゆったりと構え、落ち着き払っていました。
やがて董允たちの馬車を操っていた御者が家に戻ると、董和は彼に尋ね、その様子を知ります。
そして息子の董允に向かって、こう言いました。
「わしはいつもお前と文偉(費禕)のどちらが優れているのか、測りかねていた。
だが今ではもう、それがよくわかった」
馬車のよしあしを気にして、おどおどしていた董允よりも、意に介さなかった費禕の方が、度量において優れていると、董和は判断したのでした。
その後、董允もまた重用されるのですが、常に費禕よりも地位が一段低くなっており、董和が見立てた通りになります。
劉禅の側近になる
221年には劉備が蜀の皇帝となり、劉禅を皇太子に立てました。
この時、費禕は董允とともに、太子の舎人(皇太子の警固や雑用をこなす役)となり、ついで庶子(皇太子の側近)に昇進しています。
そして、劉備亡き後、劉禅が即位すると、黄門侍郎(皇帝の側近)に任命されました。
このように、費禕は劉禅に側仕えする者として、地位を得ていきます。
諸葛亮から特別扱いを受ける
劉備が亡くなると、蜀の南方で反乱が発生しました。
丞相となった諸葛亮は、それを征伐して帰還しましたが、その時に官僚たちはみな、都から数十里(数十km)先まで出向き、諸葛亮を迎えました。
この時に居並んだ人々は、みな年齢や官位が費禕よりも上でしたが、諸葛亮は特別に費禕を指名し、自分の車に同乗させました。
これによって、人々は費禕に対する見方を改め、一目を置くようになります。
諸葛亮は、費禕はいずれ蜀を担えるほどの人材になるだろうと、見込んでいたのでした。
【次のページに続く▼】