費禕 董允らとともに蜀を支えるも、暗殺された三代目の宰相

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蒋琬の後を継ぎ、蜀を支える

大司馬だいしば(最高司令官)となっていた蒋琬は、新たに益州刺史(長官)の官位を加えられそうになりましたが、固く辞退したために、費禕が刺史を兼任することになりました。

蒋琬はこの頃、さらに体調が悪化していましたので、後進に道を譲ろうと考えていたのでしょう。

こうして費禕の地位がさらに高まりますが、その功績や名声は、蒋琬に匹敵しました。

この二人はともに、諸葛亮ほどではないにせよ、優れた統治能力を備えており、彼らが健在なうちは、蜀の国力が衰えることはありませんでした。

やがて246年に蒋琬が亡くなると、費禕は軍事と政治の全権を担うようになります。

そして248年には、魏への攻撃を準備するために漢中に出陣し、駐屯を始めました。

諸葛亮から蒋琬、費禕に至るまで、蜀の宰相は首都である成都から離れ、外地に滞在していましたが、国の恩賞や刑罰は、全て彼らに諮問して決定され、その後で実施されました。

彼らは劉禅から、それほどの信任を受けていたのでした。

姜維の軍事行動を抑える

衛将軍の姜維は、自らの軍事の才能に自信を持っており、魏に対して積極的に攻撃をしかけようとしました。

しかし費禕はこれに反対し、制約を加えて思い通りにさせず、多くても一万程度の兵を与えるだけでした。

費禕は姜維に対し、次のように諭しています。

「我々は丞相(諸葛亮)に、はるかに及ばない。

その丞相ですら中原を平定できなかったのだ。

ましてや我らにいたっては、問題にもならない。

まずは国家を保ち、民を治め、社稷しゃしょくを守るのが一番だ。

功業を立てるには、能力がある者の出現を待たなければならない。

僥倖ぎょうこうをたのんで、一度の戦いで勝敗を決しようと考えてはならない。

もしも失敗した場合、後悔をしても間に合うものではないぞ」

保守的な考えにも見えますが、魏の戦力は、蜀のおおよそ十倍もあり、よほどの才能の持ち主でなければ、勝利はおぼつかないのが現実でした。

姜維はその差を軽く見る傾向にあり、このために戒めたのです。

費禕が亡くなって以後、姜維は敗北を重ねて蜀を疲弊させ、滅亡の一因を作ってしまいました。

この結果を見るに、費禕の考えの方が正しかったようです。

費禕は軍事の天才ではなかったものの、己の力量を見極め、無理をして国を衰退させないだけの、賢明さを備えていました。

暗殺される

費禕は251年の夏に、成都に帰還しましたが、その頃に占い師が「都から宰相の位が失われている」と、不吉なことを述べました。

このため、冬になると再び北方の漢寿に向かい、そこに駐屯します。

翌年に費禕は幕府を開き、陣営の充実を図りました。

さらに翌253年の正月に、大宴会を催したのですが、そこに魏から降伏してきていた、郭循かくじゅんという男が出席していました。

この席で、費禕は楽しげに酒を飲み、酔いつぶれましたが、そこを郭循に刃物で刺され、急死しています。

郭循は劉禅の命を狙っていたという話もあり、初めから要人を暗殺する目的で、蜀に降伏していたようです。

このような不慮の事態によって、蜀は宰相を失うこととなります。

事前に忠告されていた

費禕は博愛心の強い人物で、帰順したばかりの者でも、簡単に信用してしまう傾向にありました。

それを見ていた将軍の張嶷ちょうぎは、費禕の身を危ぶみ、忠告する文書を送っています。

張嶷は、昔の高名な将軍たちが、刺客によって殺害されてしまった例を示し、「公の位は尊く、権限は重いのですから、過去のできごとを鏡となさり、少しは警戒なさってください」と告げていました。

周囲から見ると、費禕は危険な行動をとっており、それを改めなかったために、暗殺されてしまったのだと言えます。

子どもたちは厚遇されるも、蜀は衰退する

子の費承が後を継ぎ、父と同じく黄門侍郎になっています。

その弟の費きょうは公主(劉禅の娘)を娶り、長女は皇太子・劉せんの妃となるなど、蜀の王室から大変な厚遇を受けました。

しかしながら、費禕が去った後の蜀の朝廷では、劉禅が親政を行うようになり、能力・人格ともに問題のある、宦官の黄皓こうこうが幅を利かせるようになったことで、国威が急速に衰えていくことになります。

諸葛亮、蒋琬、費禕、董允の四人が蜀を代表する政治家たちでしたが、彼らが世を去った後は、蜀を支えられるだけの優れた人材が乏しくなり、その命運が尽きてしまったのでした。

費禕評

三国志の著者・陳寿は、費禕を次のように評しています。

「費禕は寛容で、人を差別なく愛し、諸葛亮の定めた規範を受け継ぎ、その方針に沿って改めなかった。

そのために辺境は安定し、国家は和合した。

しかしながら、費禕は公務以外の場における、身の処し方をわきまえていなかった」

これに対し、三国志に注釈をつけた裴松之はいしょうしは、「費禕は宰相として優れた功績を残しているのに、公務以外の身の処し方のような、ささいなことが、どうしてそれほど問題だろうか」と、陳寿の評に疑問を呈しています。

これについては、費禕の身には重責がかかっていましたので、万が一に備えて自分の身の安全を保つのも、その役割のうちに含まれることであり、それを怠ってしまったのは、批判されても仕方がないように思えます。

とは言え、他人に寛容で、博愛心を持っていたことを責めるべきかというのは、難しいところがあるとも感じられます。