蒋済は曹操から始まり、魏の三代の皇帝に仕えた人物です。
揚州の地方官として名をあげ、やがて朝廷で働くようになり、太尉(大臣)にまで地位が昇りました。
文武のどちらにも長じており、作戦面でも活躍しています。
そして司馬懿と親しく、彼が起こしたクーデターにも賛同しました。
しかし最後に人をだます結果になったことを悔やみ、まもなく亡くなっています。
この文章では、そんな蒋済について書いています。
楚国に生まれる
蒋済は字を子通といい、楚国の平阿県の出身でした。
生年は不明となっています。
やがて出仕し、郡の計吏や州の別駕(長官の側近)に就任しています。
この頃の蒋済には、曹操の質問に答え、優れた人材である胡質を推挙した、という話があります。
蒋済は揚州の名士であり、当人に能力があるだけでなく、広く人脈も備えていたようです。
孫権が侵攻してくる
やがて208年になると、孫権が兵を率いて合肥を包囲して来ました。
この時、魏の主力は荊州の劉備を攻撃していましたが、疫病が流行し、苦しめられていました。
このため、曹操は将軍の張喜に単独で千騎を率いさせ、途中で通りかかる汝南の兵力を吸収させ、この軍勢によって包囲を解かせようとします。
しかしこの部隊の中にも疫病が蔓延してしまい、任務の達成が困難になりました。
蒋済が一計を案じる
蒋済はこの事態を知ると、偽計を用いて孫権を撤退させようとします。
蒋済は「歩兵・騎兵あわせて4万が、すでに雩婁に到着している」という張喜からの手紙を手に入れたと称します。
そして張喜を出迎える使者を出すようにと、刺史(州長官)に密かに連絡を送りました。
すると3組の使者が合肥城の守備隊長の元に送り出され、そのうちの1組は無事に城に入ります。
しかし残りの2組は孫権の軍に捕まりました。
孫権は書状をあらため、4万の援軍が近くまで来ていると知ると、この内容を信じます。
そして急いで包囲を解き、陣営を焼き払って逃走しました。
こうして蒋済の計略によって、合肥は守り通されたのでした。
曹操の質問を受ける
この翌年、蒋済は使者として譙に赴き、曹操と面会をします。
その際、曹操は蒋済に質問しました。
「その昔、袁本初(袁紹)と官渡で対峙していた時、燕と白馬の住民を強制的に移住させた。
すると民は逃走することがなく、賊も略奪を働くことがなかった。
いま、わしは同じように淮南の民を移住させようと考えているのだが、どう思う?」
蒋済の返答
蒋済は次のように答えます。
「袁紹と戦っていた時には、こちらの兵は弱く、賊は強く、移住させなければ、民を敵に渡すところでした。
袁紹を撃破なされてからは、北は柳城を落とし、南は長江・漢水へと出撃され、荊州が降伏しました。
ご威勢は天下に響き渡り、民はよく従っています。
しかし民とは郷里を懐かしむものであり、移住を心から喜ぶことはありません。
移住させると、彼らの心は必ず不安にかられるでしょう」
丹陽の太守になる
しかし曹操は蒋済の助言を取り入れず、無理に移住させようとしたため、長江や淮水あたりの住民ら10数万は、あわてて呉に逃げ込んでしまいました。
後に蒋済が使者として鄴に赴くと、曹操が出迎え、会うと大笑いをして言いました。
「わしは賊を避けさせようとしただけだったのに、向こうに駆り立てる結果になってしまったわ」
そして蒋済を丹陽の太守に任命しました。
蒋済の見識を高く評価したのでしょう。
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