夏侯尚に詔勅が下される
この頃、詔勅が南征将軍の夏侯尚に下されました。
「卿は我が腹心であり、特別な任務を与え、懸命な働きに対し、ふさわしい恩恵と寵愛を与えている。
下の者に刑罰を実施し、恩賞を施し、人を殺し、人を生かせ」
夏侯尚はそれを受け取ると、蒋済に見せました。
やがて蒋済が都に赴くと、曹丕は「卿は天下の風俗が教化された様子を見てきたはずだが、どう受け止めておる?」と質問をします。
蒋済が曹丕を諌める
蒋済は「とりたててよいところはありません。亡国の言葉があるばかりです」と答えました。
これを聞いた曹丕はいきどおって顔色を変え、理由をたずねます。
蒋済は答えて言いました。
「刑罰を行い恩賞を下すのは、『尚書』によって、天子(皇帝)の権限であり、人臣には許されないことだとされています。
天子は戯れに言葉を用いることはなく、古人は慎重にふるまっていました。
陛下におかれましては、このことをご推察ください」
蒋済は、曹丕が軽はずみに夏侯尚に大権を与えたことをたしなめたのでした。
これを聞いた曹丕はことの理非を悟り、蒋済への怒りを解きます。
そして夏侯尚に与えた詔勅を返還させました。
呉の征討に参加する
222年になると、曹丕は大司馬(最高司令官)の曹仁とともに呉を征討します。
この時、蒋済は別軍を率いて羨谿を攻撃しました。
やがて曹仁が濡須の中洲を攻撃しようとしていたので、蒋済は意見を述べます。
「賊は西岸に拠点を置き、船を上流に並べています。
中洲に兵を入れますと、我が軍は地獄の中に飛び込むことになります。
大変危険であり、壊滅しかねない作戦です」
しかし曹仁はこの意見に従わず、蒋済が予測した通りに敗北しました。
再び東中郎将に、ついで尚書になる
ほどなくして曹仁が亡くなると、蒋済は再び東中郎将に任命されます。
そして曹仁の兵を引き継ぎました。
この時、「卿は文武の能力を兼ね備え、慷慨(悪や不正を怒り嘆く)の志をいだき、江湖を渡って呉を併呑せんとする志を持っている。
ゆえにまた統率の任務を授ける」という詔勅が下されました。
しばらくすると、また中央に召喚され、尚書(政務官)に就任します。
このように、蒋済は軍事と政務をどちらも担当しており、多才な人物だったことがうかがえます。
水路について意見を述べる
曹丕は呉を圧迫するため、広陵に行幸をしたことがありました。
この時、蒋済は水路での移動が困難になることを上奏し、『三州論』を提示して諌めましたが、曹丕は従いませんでした。
この結果、数千艘の軍船が渋滞してしまい、進むことができなくなります。
屯田について意見を述べる
他に意見を述べる者がいて、この機会にこの地に兵を留めおき、屯田をしたいと曹丕に申し出ました。
蒋済はこれに対し、東は湖水に近く、北は淮水に面しており、水の量が多い時期には賊が侵入してくるので、屯田を定着させるのは難しい、として反対します。
曹丕はこの意見を取り入れ、広陵から立ち去りました。
船を移動させる
精湖まで戻ってくると、水量が乏しくなってきたので、船を留めて蒋済が預かることになります。
この時、船は数百里にわたって散らばっていましたが、蒋済は地面を掘って四、五本の水路を作り、船を移動させて集合させました。
そして堤を作って湖の水をせき止め、船と船をつなぎ合わせます。
その上で一挙にせきを開いて水量を増大させ、船を淮水に入れることに成功しました。
この結果、動けなくなった船を放棄することなく、魏の領内に戻すことができたのでした。
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