太尉になる
やがて曹叡が亡くなり、曹芳が即位します。
蒋済は領軍将軍に昇進し、昌陵候に爵位が進みました。
さらに太尉(防衛大臣)にも昇進し、着々と地位が高まっていきます。
時苗と蒋済
ところで、蒋済が揚州の地方官をしていた頃、同地に時苗という優れた官吏がいました。
時苗は最初に赴任した時、蒋済に挨拶に出向いたのですが、酒好きの蒋済はひどく酔っ払っていたため、面会することができませんでした。
時苗は腹を立てて恨みを抱き、木を彫って人形を作り、「酒従蒋済(酔っぱらい蒋済)」と書き記し、それを日毎に弓矢で射ました。
上官に対して不謹慎な行いではありましたが、時苗はそれ以外の場所では清廉な品行を貫いていたため、誰もとがめることができませんでした。
蒋済も当時は腹を立てていたでしょうが、後に太尉という高位に登っても、地位を利用して時苗の出世を妨げたり、憎んだりすることはなかったといいます。
元は自分の失敗から発生した事件ではありましたが、蒋済はさっぱりとした人柄であったようです。
祭事について意見を述べる
これより昔のこと、侍中の高堂隆が、天を祀る儀式について、魏は舜(古代の賢王)の子孫なので、舜を敬い、天とともに祀るべきだと主張しました。
これに対し蒋済は、舜の本姓は媯であり、子孫の姓は田なのだから、曹(魏の王族)の先祖ではないとし、文章を発表して高堂隆を批判しました。
舜が祀られることで、曹操が天とともに祀られていなかったのですが、蒋済はこれを是正しようと図ったのでした。
しかしながらこの意見は受け入れられず、結局はそのままになっています。
あるいは蒋済には、曹操を祀る対象にすることで、曹氏自体の権威を高めようとする意図があったのかもしれません。
曹爽を批判する
この頃は、王族の曹爽が権力を握り、その仲間である丁謐や鄧颺らが勝手に法や制度を改変し、統治が乱れていきました。
そして偶然に日食が発生したので、曹芳が群臣たちに詔勅を下し、現象の意味を質問したことがありました。
蒋済はこの機会に、上奏して次のように述べています。
「その昔、舜は堯の統治を助けていた時、徒党が組まれることを警戒していました。
また、周公は成王の政治を補佐していた時、成王に盟友を作ることを戒めました。
春秋の頃、斉候が天変について質問をすると、大臣の晏嬰は、恩恵を施すことを勧めました。
魯の君主が災異について質問をすると、臧文中は役務を軽減するようにと答えました。
天の意志に応じて変異をおさめることは、人がなすべき事柄です。
いま呉と蜀はまだ滅亡しておらず、将兵は数十年に渡って風雨にさらされています。
男も女も離別し、民は貧しさに苦しめられています。
もとより国家の法や制度を作るのは、一世を覆うほどの大才の持ち主が担うべきことであり、それによって国の大綱が打ち立てられ、後世にも引き継がれます。
中や下の才能しかない役人が改変してよいものでしょうか。
政治に害を与え、民の期待を損なう結果に終わるだけです。
文武の臣にそれぞれの責任をまっとうさせ、穏やかな統治によって国を導いていくべきです。
そうすれば陽気と、瑞兆を招き寄せることができます」
このようにして、蒋済は魏が傾いていく現状を憂いていたのでした。
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