蒋済 文武に秀で、司馬懿と親しかった魏の忠臣

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司馬懿とともに曹爽を打倒する

その後、曹爽は権力を固めるため、魏の重鎮である司馬懿から実権を奪い取ります。

司馬懿は従ったふりをしながら機会をうかがい、249年になると、曹爽らが都から外出した隙をついて挙兵しました。

蒋済はもとより司馬懿と親しかったこともあって、この策に賛同しました。

そして洛水の浮橋に駐屯し、曹爽らを追い詰めます。

蒋済は曹爽に手紙を送り、司馬懿は曹爽を免職にするだけのつもりで、命までは奪うことはないと伝えました。

しかし司馬懿はこの言葉をひるがえし、曹爽らを武装解除させ、自宅に軟禁した上で、一族をみな処刑してしまいます。

こうして蒋済は、はからずも曹爽を裏切ることになりました。

褒賞を固く辞退する

事態が収拾された後で、蒋済は都郷候に爵位が進められ、七百戸の領地が与えられます。

蒋済は上奏し、次のように述べました。

「臣は恩寵をこうむり、高い位にありましたが、曹爽は謀反心を隠し持っていました。

これは臣が任務を果たしきれなかったからこそ、起きたことです。

太傅たいふ(司馬懿)はこの事態に奮起し、一人で計画を決めて実行に移し、陛下がその忠節を明らかにされました。

罪人が刑に服したのは、国家にとって幸いです。

領地や恩賞は、功績がある者に授けられるべきですが、計略について言えば、臣は予め知っておらず、戦闘についても、臣が兵を率いたわけではありません。

にも関わらず、臣に恩賞を授け、国家がその定めを取り違えれば、下の者は失政の悪しき影響を受けることになります。

臣は宰相の一員であり、民から仰ぎ見られる高官の地位にあります。

恩賞がむやみに与えられる弊害がこのことから始まり、謙譲の気風が廃れるのではないかと懸念いたします」

こうして蒋済は褒賞を与えられることを固辞したのですが、許されませんでした。

まもなく亡くなる

蒋済は結果として曹爽を騙し討ちにしてしまい、自分の言葉が信義にもとっていたことを気に病みました。

蒋済にとっては、これは命を削るほどの悩みであったようです。

このため、この年のうちに亡くなっています。

死後、景候とおくりなされました。

子の蒋秀が後を継ぎ、蒋秀も亡くなると、子の蒋がいが後を継ぎました。

咸熙かんき年間(264-265年)に五階級の爵位制度が創設されましたが、蒋済が先帝の時代に功績を上げたことから、蒋凱が下祭子かさいしに取り立てられています。

蒋済評

三国志の著者・陳寿は蒋済を次のように評しています。

「蒋済は才能と知略に優れた奇士だった。

清潔さや品行は荀攸とは異なるが、計略を立てた点では仲間であると言える」

蒋済は酒や賄賂を好み、品行に欠点はあったものの、優れた能力を備えており、軍事でも政務でも活躍しました。

皇帝に対しても率直に意見をし、政道をただすことに努めました。

しかし最後には曹爽を騙す結果になったことを悔やむあまりに、死亡してしまいました。

この事件によって司馬氏の権力が高まり、やがて魏は晋に取って代わられることになるのですが、生涯を費やして盛り立ててきた曹氏の時代が終わることを悟り、それによって気落ちをしたという点も、蒋済の気持ちをくじいたことの原因だったかもしれません。

蒋済は短い期間で終わった、魏という国の忠臣だったのだと言えます。