曹丕の信頼を得る
曹丕は都である洛陽に戻ると、蒋済に言いました。
「物事を理解していないというのは、よくないことだ。
わしは山陽の池において、船の半数を焼き捨てようと思っていたが、卿は後に残り船を送ってきて、わしとほぼ同じ時期に譙にたどり着いた。
また、卿の言上を聞くたびに、わしの心にしみ通るものがある。
今後、賊を討ち果たすために計画を立て、よく考えて意見を述べてくれ」
このようにして、蒋済は曹丕から信頼を得たのでした。
曹休の作戦に意見を述べる
やがて曹丕が亡くなり、曹叡が即位すると、蒋済は関内侯の爵位を授かりました。
この頃、大司馬の曹休が軍をまとめて皖に向かうと、蒋済は上奏して次のように主張します。
「敵地の奥深くに侵攻し、呉の精鋭と対峙していますが、その間に上流にいる朱然らが曹休の背後から攻撃してくるでしょう。
臣にはこの作戦が有利だとは思えません」
救援を主張し、全滅を免れさせる
軍勢が皖に到着すると、呉は安陸に出撃してきました。
すると蒋済は再び上奏をします。
「ただいま、呉が西方で動いているのは、兵を集めて東方を攻撃する意図があるからです。
急ぎ勅命を下され、曹休の救援に駆けつけさせるべきです」
この時、すでに曹休は敗北しており、武器や物資を放棄して退却していました。
呉はその退路を断とうとしていましたが、蒋済が要請した魏の救援が到着したために、全滅を免れることができました。
昇進し、政治の弊害を指摘する
蒋済はやがて中護軍に昇進します。
この頃、中書監の劉放と中書令の孫資が、朝廷で大きな権限を握っていました。
このため、蒋済は「大臣の権力が大きくなりすぎると、国家は危険に陥ります」と指摘し、これを改めるように曹叡に勧めました。
曹叡はこの上奏を喜び、蒋済の文武の才と忠義を称賛します。
この結果、蒋済は護軍将軍に昇進し、散騎常侍の位も加えられました。
賄賂をとっていた
蒋済はこのように、直言をためらわない勇敢な人物でしたが、一方では賄賂を遠慮なく受け取る性質も備えていました。
護軍は軍の指揮官を任命する権限を持っていたことから、賄賂を受け取るのが当たり前の地位だとされていたのですが、蒋済の代ではその傾向がはなはだしかったようで、「牙門(将軍位)になりたかったら絹千匹、百人督(部隊長)なら五百匹」などという歌が作られ、流行しています。
後に親しく付き合っていた司馬懿にそのことをたずねられると、蒋済は弁解のしようもなく、言葉に詰まってしまいました。
司馬懿は蒋済をからかい、「洛中での買い物(地位を得るための賄賂)は、一銭でも足りなければだめなのか」と言って大笑いをしたそうです。
このように、蒋済にはがめついところがありました。
幼い鍾会の才能を評価する
また、この頃に蒋済は「瞳を観察すれば、その人の器をはかることができる」という論文を書きました。
これを知った魏の重臣である鍾繇は、自分の子の鍾会を蒋済に会わせます。
鍾会はまだ5才でしたが、蒋済は高く評価し「並外れた才能がある」と述べました。
鍾会は後に反乱の鎮圧や、蜀の討伐などで活躍し、大いに名声を獲得します。
しかし魏からの独立を図り、失敗して殺害されるという運命をたどることにもなりました。
並外れている、という点では、確かに当たっていたのだと言えます。
遼東の征伐に反対する
232年になると、曹叡は平州刺史の田豫と、幽州刺史の王雄に命じて遼東を攻撃させます。
蒋済は意見を述べ、これを諌めました。
「敵対していない国や、反乱を起こしたわけでもない臣下を、軽率に討伐するべきではありません。
討伐しようとして制圧できなければ、相手は賊になり、こちらに敵意を持つようになります。
ゆえに『虎や狼が道をふさいでいる時は、狐や狸を狩らない』と申すのです。
大きな害を先に取り除けば、小さな害は自然と消え去ります。
ただいま、海を隔てた地域(遼東)は代々臣下の礼をとり、毎年計吏や孝廉を選んで人材を送り、献上物も捧げてきています。
討伐の意見を申し出た者が、遼東を標的にすることを考えたのは、一度戦えば容易に勝利できると考えたからでしょう。
しかしその民を手に入れても国に利益があるほどの規模ではなく、財貨を手に入れても国が豊かになるほどではありません。
一方でもしも失敗すれば、敵対関係が残り、信義が失われます」
曹叡はこれを聞き入れませんでしたが、田豫らの軍事行動は結局、失敗に終わりました。
そしてこの後、遼東を支配する公孫淵は、魏への謀反の計画を進めていくことになります。
【次のページに続く▼】