蒋済 文武に秀で、司馬懿と親しかった魏の忠臣

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曹叡の宮殿造営を諌める

景初年間(237-239年)、曹叡は外征を盛んに行い、同時に宮殿の造営に多くの労力を費やしたので、独身の男女が増え、農業の生産力も低下してしまいました。

このため、蒋済は上奏します。

「陛下は前代の事業を拡充し尊重され、先帝の遺業を成し遂げられるべきで、まだ統治は安定した状況にありません。

十二州を領有しておられるとは言え、人口は漢の時代では、ひとつの郡に相当する程度のものです。

呉や蜀はまだ討伐されておらず、辺境に兵が駐屯し、農耕をしながら戦っています。

このため、長年に渡って独身のままでいる者が多くなっています。

宗廟や宮殿、政治はすべて草創期にあり、農耕や養蚕に従事する者が少なくなっています。

ただ今、急務となっているのは、民の疲弊を軽減させることです。

疲弊した民に水害や早害が襲いかかれば、百万の軍勢は役に立たなくなります。

民を使役する場合、必ず農閑期を待たなければなりません。

大きな事業を成し遂げる君主は、民の力を計算して用い、いたわるものです。

越王の勾践こうせんは幼子を大事にし、用に耐えるようになるのを待ちました。

燕の昭王は病人をいたわり、仇から受けた恥をすすごうとしました。

このため、弱国のえつが強国の呉を滅亡させ、燕もせいを従わせることができたのです。

呉と蜀は、攻撃をしかけなければ倒すことができず、放置すればこちらに侵攻してきます。

ご自身の御代に打倒しなければ、百代の後にまで責任を問われることになります。

陛下の優れた見識や、神のごとき武勇によって計画を立てられ、急務でないことは後に置き、賊を討つことに専心されれば、難しいことはないと思われます。

そして歓楽にふけると、害がもたらされるものです。

精神を酷使すればやがて枯れ果て、肉体を酷使すれば疲弊します。

賢く美しく、百人の御子をもうけるのにふさわしい女性をお選びください。

その他の成年に達しない者たちはすべて退出させ、静かな生活をお過ごしください」

曹叡はこれに対し、「護軍(蒋済)がいなければ、わしはこのような忠告を聞けないであろう」と詔勅を出しました。

このように、蒋済は中央において、政道をただすことにも尽力していました。

孫権の動きを予測する

遼東の公孫淵は、魏から攻撃を受けたこともあってか、呉と勝手に外交を行うようになりました。

しかし呉から来訪した使者を殺害し、贈り物だけを強奪するといったふるまいをしていたので、関係が悪化します。

やがて公孫淵は独立を宣言し、勝手に燕王を名のったので、魏軍が討伐することになりました。

すると公孫淵は呉に救援を求めたので、曹叡は蒋済に「孫権は遼東を救援するだろうか?」と質問をしました。

蒋済は次のように答えます。

「孫権は、官軍の準備が周到で、この事態から利益を得るのが難しく、深入りしても力ではどうにもできず、浅く関わっても労苦が多いだけで、得られるものがないと承知しています。

孫権は子弟が危機に陥っていたとしても、遼東を救援しようとはしないでしょう。

ましてや公孫淵は他人である上に、以前には使者を殺害されるという屈辱を受けています。

孫権はただいま、遼東を救援すると宣伝していますが、これは我が国を惑わすためのものです。

そしてもしも我が国が勝利できなければ、その後で公孫淵を呉に仕えさせようと望んでいるのです。

一方で、我が軍の上陸地点である沓渚とうしょはまだ公孫淵から遠い場所にあります。

大軍が対峙してもすぐに決着がつかなければ、孫権の考えの浅さからして、軽装の兵を派遣して襲来するかもしれず、そのあたりは予測がつきにくいところです」

結局、孫権は予測通りに動かず、公孫淵は魏軍に討伐され、遼東は平定されました。

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