蒋済 文武に秀で、司馬懿と親しかった魏の忠臣

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揚州の別駕になる

曹操は大軍を動員して南征を実施し、その帰りに温恢おんかいを揚州刺史に任命しました。

そして蒋済は、温恢を補佐する別駕に任命されます。

その辞令は次のようなものでした。

季子きし(古代の呉の賢人)を臣下にしたからには、呉(古代では野蛮扱いされていた国)に君主があると認めてもよいという。

君が州に帰れば、わしも安心だ」

謀反を企んだと訴えられる

しかしそれから、揚州の住民が「蒋済が謀反を企んだ」と訴え出る事件が発生しました。

曹操はそれを知ると、先に出した辞令を指さし、将軍の于禁うきんや、沛国の相(長官)である封仁ほうじんらに言います。

「蒋済がこのような事をするとは思えぬ。

これが事実なら、わしは人を見る目がないということになる。

これはきっと愚かな民がむやみに騒動を起こし、偽りを述べて彼を巻き添えにしただけだろう」

そして裁判官に通達し、蒋済を釈放させます。

その後、曹操は蒋済を召し寄せ、丞相主簿しゅぼ西曹せいそうの属官に取り立てました。

そして「しゅん皋陶こうようを取り立てると、不仁の者たちは遠くに去ったという。

公正な判断を、賢明な曹属に期待している」と辞令を出しました。

このようにして、蒋済は曹操からの評価によって、地方から中央へと取り立てを受けたのでした。

関羽が北上し、曹操が憂慮する

219年になると関羽が北上し、魏の荊州の拠点であるはん襄陽じょうようを攻撃してきます。

曹操は于禁を援軍に派遣しますが、河の氾濫に巻き込まれて壊滅しました。

曹操はこの事態を憂慮し、献帝の居所である許都が、関羽と近い場所にあることを懸念します。

このため、都を北に移そうかと検討しました。

曹操に進言する

この時、蒋済は司馬懿しばいとともに曹操に進言をしました。

「于禁らは水に没したのであって、戦闘に敗れたのではありません。

国家の大計からしますと、損害とするほどのことでもありません。

劉備と孫権は、表面的には親密ですが、内実では疎遠で、関羽が望みを達成することを孫権は願っていません。

使者を送って関羽の背後を襲撃するように勧め、孫権に長江以南の領有を認めてやるのがよろしいでしょう。

そうすれば樊の包囲は自然と解かれることになります」

曹操はこれを採用し、策を実行に移します。

孫権は曹操からの提案を受け入れ、呂蒙りょもう陸遜りくそんらに関羽の拠点である公安を攻略させました。

そして関羽を捕らえ、処刑しています。

東中郎将となる

曹操が亡くなり、曹丕が王位につくと、蒋済は相国しょうこく長史ちょうし(首相の副官)に転任となりました。

そして曹丕が魏の皇帝になると、東中郎将(軍司令官)になり、朝廷の外に出されます。

この時、蒋済は朝廷にとどまることを願い出ましたが、次のような詔勅が下されました。

「高祖(劉邦)は『勇猛な士を得て四方を守らん』と歌ったが、天下はいまだ安定しておらず、このために優れた臣下を配置し、辺境を鎮めなければならない。

平和になってから帰還し、朝廷に玉を鳴らしながら出仕してもよいであろう」

この後、蒋済は『万機論』という政治についての著作をし、曹丕に献上しました。

これを曹丕は称賛し、朝廷に戻して散騎常侍に任命します。

許子将を批判する

蒋済はこの『万機論』の中で、人物評の名人として知られた許劭きょしょうを批判しています。

許劭の人物評は不公平なものであり、樊子昭はんししょうをいたずらに高く持ち上げ、許靖きょせいを不当に低く評価している、というのがその根拠でした。

これに対し侍中(皇帝の側近)である劉曄りゅうようは「樊子昭(許劭が称賛した人物)は商人から身を起こしたが、60才になるまで、官を離れたときは静かに生活し、官についた時はいい加減なことをしなかった」と述べて反論します。

蒋済は「樊子昭は幼少の頃から老人になるまで、確かに清廉潔白だった。

しかし彼はよく歯をがちがちと鳴らし、頬をぴくつかせ、口角泡を飛ばすような、見苦しいふるまいも多かった。

それらを見れば、許靖とは比べ物にならない」と言い返しました。

許靖は許劭の従兄弟で、両者は不仲でした。

このために許劭は許靖を低く評価したようですが、そのように、個人の感情を交えて正当に評価しなかったことを、蒋済は批判したのでした。

蒋済は「許靖は国政を担うに足る人物であるが、許劭は彼を低く評価した。

もしも本当に彼を尊重しなかったのなら、人を見る目がなかったことになる。

もしも本当は彼の価値を知っていたのなら、意図的に優れた人物を無視したことになる」とも書いています。

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