鄧芝は蜀に仕えて活躍した将軍です。
若い頃はなかなか地位を得られませんでしたが、年齢を重ねるにつれて立身しました。
孫権との外交に成功して友好関係を樹立し、蜀の東方の統治を任されるなどしています。
そして反乱の鎮圧にも活躍し、70才を越えても現役でした。
この文章では、そんな鄧芝について書いています。
【鄧芝の塑像】
新野に生まれる
鄧芝は字を伯苗といい、荊州の義陽郡、新野県の出身でした。
後漢の建国に貢献し、司徒(大臣)となった鄧禹の子孫で、名家の出身だったと言えます。
後漢の末期になると、蜀に入りましたが、すぐに士人の知遇を得るにはいたらず、官位につくことはできませんでした。
老年になってから出世すると言われる
この頃、益州従事の張裕が人相見を得意としていたので、鄧芝は彼に会いに行きます。
すると張裕は「君は七十才を過ぎてから大将軍となり、候に封じられるだろう」と言いました。
それから鄧芝は、巴西太守の龐羲が士を好むと聞き、訪ねて行って身を寄せます。
劉備に見いだされ、抜擢を受ける
やがて劉備が益州を平定すると、鄧芝は郫県にある邸閣(食糧の貯蔵庫)の督となりました。
劉備は外出した際に、郫県を訪れて鄧芝と語り合いましたが、その才能を高く評価し、郫の県令に抜擢します。
ついで、広漢の太守に任命しました。
こうして鄧芝は倉庫の管理官から、一郡を治めるほどの地位に出世します。
どの任地でも清潔にふるまい、厳正な態度で治績をあげたので、中央に召喚されて尚書(政務官)となりました。
孫権への使者を務める
223年になると、夷陵の戦いで呉に敗北し、病に倒れていた劉備が、永安で亡くなります。
それより以前のこと、呉の孫権が和睦を求めてきていたので、劉備は宗瑋や費禕を何度も派遣し、答礼をしていました。
丞相の諸葛亮は、孫権は劉備が亡くなったことを知れば、心変わりをしてよからぬことを企むのではないかと考え、どう対応をするか、判断を下しかねていました。
すると鄧芝が諸葛亮に面会し、「ただいま、主上(劉禅)は幼く、即位されたばかりです。
使者を派遣し、呉に友好の意を重ねて伝えるべきかと思いますが」と言います。
すると諸葛亮は「私は久しくそのことを考えていたが、使者にふさわしい人物が見つからなかったのだ。
しかし今日になって、はじめてその人物が見つかった」と言いました。
鄧芝が「それは誰ですか」と質問をすると、諸葛亮は「つまりは君が使者となるのだ」と答えます。
こうして鄧芝は呉に派遣され、孫権との外交に取り組むことになりました。
孫権との交渉に臨む
鄧芝が呉を訪れると、諸葛亮が危惧していた通り、孫権はすぐに会おうとしませんでした。
このため、鄧芝は自分から上表をし、孫権に会見を申し入れます。
「臣がこのたび参りましたのは、呉のためになることを望んでのことです。
ただ蜀のためばかりを考えているわけではありません」と告げました。
孫権はこれを聞いて鄧芝と会い、次のように語ります。
「わしは蜀と親しくすることを望んでいる。
しかし蜀の君主は幼く、国土は小さく、勢いに欠けている。
そこを魏につけこまれ、国を保てないのではないかと心配している。
だから同盟するべきか、ためらっているのだ」
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