孫権の説得に成功する
鄧芝は次のように答えました。
「呉と蜀は四州の地を支配し、大王様は世をおおう英雄であらせられます。
そして諸葛亮もまた、一代の傑物です。
蜀には重ねてそびえる峻険の守りがあり、呉には三江(三つの河)の隔てがあります。
この二つの長所を合わせ、唇と歯のように互いに助け合えば、進んでは天下を平定することができますし、退いては三国の鼎立が可能です。
これは自然の理のようなものです。
大王様が、いまもし魏に臣従をされると、魏は必ず、上は大王様の入朝を望み、下は太子を皇帝に仕えさせよと要求してくるでしょう。
もしもそれに従わなければ、反逆者と位置づけられ、討伐を受けることになります。
すると蜀は必ず、その状況を利用するため、時の勢いに従い、呉に進攻することになります。
そうなると、江南の地は大王様のものではなくなってしまいます」
孫権はしばらく沈黙した後で、「君の言うことは、もっともだ」と述べました。
鄧芝はこのように、同盟を結ばないでいれば、いずれ蜀もまた呉を攻撃することになると、冷徹な見通しを率直に語ることで、かえって孫権から信用を得たのでした。
すぐれた交渉人だったと言えます。
再び孫権と会う
孫権はこの後で、魏と絶交し、蜀と同盟を結び、張温を派遣して蜀に返礼をしました。
蜀もまた、もう一度鄧芝を派遣します。
その席で、孫権は鄧芝に言いました。
「もしも天下太平となれば、二人の君主が国を分けて治める。それもまた愉快ではないか」
鄧芝は答えて言います。
「天に二つの太陽はなく、地に二人の王はいないものです。
魏を併呑した後のことは、大王様はまだ天命を深く認識していらっしゃらないようです。
君主がそれぞれに徳を盛んにし、臣下がよく忠誠を尽くし、将軍が陣太鼓をひっさげて出陣すれば、戦争がはじまります」
つまり魏を倒せば、その後は呉と蜀が天下を競うことになる、と正直に言ったのでした。
孫権はこれを聞いておおいに笑い、「君の誠実さを思えば、当然の答えだな」と言いました。
孫権は諸葛亮に手紙を送り「以前やってきた使者の丁広は、言葉が華やかだが浮ついており、陰化は逆に、言葉足らずだった。
二国が和合したのは、ひとえに鄧芝の働きによるものである」と伝えました。
このようにして、鄧芝の外交力が高く評価されます。
この時、鄧芝は馬二百匹と錦を千疋、そして蜀の特産物を呉に贈りました。
この後で、公式の使者が恒常的に両国の間を行き来するようになり、友好関係が樹立されます。
呉の方でも特産物を蜀に贈り、蜀の丁重な礼に答えました。
鄧芝の働きによって三国の鼎立が確立し、大きな成果をあげたのだと言えます。
北伐に参加する
やがて諸葛亮は北伐のために漢中に駐屯するようになりましたが、その際に鄧芝を中監軍・楊武将軍に任じ、軍権を与えています。
第一回目の北伐においては、趙雲とともに箕谷に出陣し、魏軍を牽制する役割を担っています。
そして魏の将軍・曹真が率いる部隊を引き寄せましたが、数の差が大きかったので、敗北しました。
しかし軍をまとめて守りを固めたので、大きな損害は出さずにすんでいます。
この後で、鄧芝は諸葛亮から「他の部隊は指揮が乱れて将兵がばらばらになったのに、箕谷の兵はよくまとまっていた。これはどうしてか」と質問をされました。
鄧芝は「趙雲が自ら後詰めを務めたので、物資を捨てずにすみ、将兵もまとまりを失うことがなかったのです」と答えています。
さらに地位が高まる
やがて諸葛亮が亡くなると、さらに立身し、前軍師・前将軍となりました。
さらに兗州刺史を兼任し、陽武亭候の爵位を与えられ、ほどなくして督江州(江州の監督官)となります。
この時、鄧芝が蜀の東方を、馬忠が南方を、王平が北方を統治しましたが、いずれも優れた功績をあげたと評価されました。
このようにして、鄧芝はかつて張裕に言われたように、年をとってから高位の将軍となり、候に封じられる待遇を受けます。
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