宗預と年齢について話をする
その後も孫権との交流は続き、たびたび安否をたずねる手紙と、丁重な贈り物が届けられます。
243年になると車騎将軍に昇進し、その後で仮節(独自裁量権)を加えられ、蜀軍の重鎮となりました。
そして247年に、鄧芝は江州から成都に帰還し、屯騎校尉(上級武官)に昇進した宗預に会っています。
鄧芝はこの時「『礼記(儒学の経典)』には、六十才になれば軍事には携わらないと書かれている。
しかし君は、その年ではじめて兵を預かることになった。
これはどうしてだろうな」と言ってからかいました
すると宗預は「あなたは70才なっておられるのに、兵権を返上なさらない。
なのに私が60才で、どうして兵を預かれないことがありましょうか」と言い返しました。
これは自分のことを棚にあげてからかった、鄧芝に非があったと言えます。
鄧芝は自尊心が強く、剛気な性格だったので、大将軍の費禕ですらも、遠慮する態度を見せていました。
しかし宗預は鄧芝と同じく剛直な性格だったので、ただひとり、鄧芝に対してへりくだることがありませんでした。
ちなみにこの宗預もまた、孫権への使者となり、おおいに気に入られています。
猿を射て死期を悟る
248年になると、涪陵国の領民が都尉を殺害し、反乱を起こしたので、鄧芝は軍勢を率いてこれを討伐します。
そしてすぐに頭目の首をとってさらしものにしたので、領民は安堵しました。
鄧芝はこの遠征の際に、母猿が子を抱き、樹の上にいるのを見かけます。
鄧芝は弩を好んでいたので、引き絞って狙いをつけ、矢を発射しました。
すると矢が母猿に命中しましたが、小猿は矢を抜きり、木の葉でその傷をふさぎます。
その様子を見た鄧芝は、悪いことをしてしまったと思ったのか、ため息をついて弩を水中に投げ込み、自分の死が近いことを予感したといいます。
自分の趣味のために、むやみに生き物を傷つけるのは、していはいけないことだったと、反省したようです。
鄧芝は実際のところ、この3年後、251年に死去しています。
享年ははっきりしていないのですが、宗預との生前の会話から、70才を超えていたことは確かです。
清廉で剛気な性格だった
鄧芝は将軍の位に二十年以上もついていましたが、賞罰を明確にし、兵卒をよくいたわりました。
衣食は官から支給されるものを頼り、質素、倹約などは考えもしませんでした。
しかし、まったく利殖をしなかったので、妻子は飢えや寒さを免れられず、死んだ時には家に少しも財産がありませんでした。
剛気な性格で、飾り気がなく、感情をはっきりと表に出したので、他の士人たちとうまく付き合うことができませんでした。
同時代の人間にはほとんど敬意を払いませんでしたが、ただ姜維の才能だけは高く評価しています。
姜維もまた、支給される衣食で充足し、俸禄を使いきり、快楽を求めない性格でしたので、鄧芝と似たところがあり、そのために気に入っていたのかもしれません。
子の鄧良が爵位を継承し、後に尚書左選郎になり、蜀が降伏すると、晋に仕えて父と同じく広漢太守となりました。
鄧芝評
三国志の著者・陳寿は「鄧芝は堅実で、簡潔なふるまいを好み、職務に臨んでは、家のことをかえりみなかった」と評しています。
鄧芝は外交・統治・軍事のいずれの分野でも実績を残しており、優れた人材だったと言えます。
蜀が小さいながらも国を保つことができたのは、鄧芝のような人物が屋台骨を支えていたからなのでした。