征西将軍は中国の官職です。
後漢や三国時代に設置されていました。
征西は「西を征する」の意味で、後漢の西部で反乱が起きた場合に、それを征伐する役目を担っていました。
このため、敵がいない時期には設置されず、必要に応じて任命されています。
使持節という、独立した指揮権と一緒に任命されることが多く、方面司令官としての権限を有していました。
長安に駐屯し、担当地域は雍州と涼州でした。
長史(副官)や司馬(監察官)などの属官を任命する権限を持っており、大将軍や車騎将軍など、最上位の将軍に次ぐ立場です。
現代で言えば大将にあたります。
後漢が安定してた時代にはほとんど任命されませんでしたが、末期になると反乱があいついだため、征西将軍も任命されるようになりました。
三国志では
馬騰
後漢の末期には馬騰が任命され、涼州に駐屯して勢力を持ちました。
董卓が暗殺された後、李確たちが長安を制していた時期には、これを襲撃して朝廷の支配権を奪おうとしたこともあります。
やがて馬騰は年老いたので、長男の馬超に指揮権を継承させ、曹操の招きに応じて都に移住します。
しかしその後、馬超が曹操に対して反乱を起こしたため、馬騰は曹操に捕らえられ、処刑されてしまいました。
馬超が自称する
その馬超は、曹操と渭水で果敢に戦いますが、最終的には敗北して涼州に逃れました。
【10万の兵を集めて曹操に反抗した馬超】
そして自らが血を引く羌族の援助を受けて再起し、涼州を制圧します。
この時に馬超は征西将軍を自称しましたが、これは正式な任官ではありませんでした。
馬超はやがて涼州の曹操側の武将の策にだまされ、本拠地を失います。
そして漢中に逃れて張魯から兵を借り、再び涼州に攻めこみますが、夏侯淵に敗れて涼州から追い出されています。
漢中でも煙たがられるようになったため、馬超は益州にやってきた劉備に臣従し、安息を得ました。
夏侯淵
その後は曹操の重臣・夏侯淵が征西将軍に就任しました。
【騎兵の指揮を得意とし、異民族の討伐に活躍した夏侯淵】
夏侯淵は長安に赴任すると、馬超や韓遂といった武将たちと、氐族や羌族といった異民族たちを討伐し、涼州の平定に成功します。
そして曹操が張魯を討伐して漢中を制圧すると、征西将軍に任命されて守備につきました。
すると、しばらくしてから劉備が漢中を奪おうと攻めこんできたので、これを定軍山で迎撃し、にらみ合いとなります。
219年になると劉備が砦に夜襲をしかけて来ましたが、この際に夏侯淵は黄忠の猛攻を受け、戦死してしまいました。
このように征西将軍に正式に任命された馬騰や夏侯淵は、偶然とはいえ、いずれも不幸な終わりを遂げています。
西方の情勢が、それだけ荒れていたことの証だとも言えるでしょう。