征東将軍は後漢や三国時代の官職です。
「東を征する」の名の通り、大陸の東部を担当した方面司令官でした。
他に征北、征西、征南将軍も存在しており、合わせて四征将軍とも言われます。
征東将軍は寿春に駐屯することになっており、青州、兗州、徐州、揚州の四州が担当地域でした。
常設ではなく、この方面に敵が現れた際に任命され、討伐するのが役目でした。
使持節という独立した指揮権を持っており、担当した地域では大きな権力を持っています。
そして長史や司馬といった幕僚を、独自に任命する権限も持っていました。
現代で言えば大将にあたる高い地位です。
平穏なうちは任命されませんでしたが、戦乱の時代になると、曹操や曹丕が任命するようになりました。
三国志では
張遼
有名なところでは、張遼が就任しています。
【魏随一の猛将として恐れられた張遼】
張遼は215年に、合肥が孫権の率いる10万の大軍に攻めこまれた際に、防衛戦に参加しました。
張遼はこの時、八百人の志願兵を引きつれて孫権軍に先制攻撃をしかけ、手鼻をくじくことにします。
先頭を駆けて孫権軍に突入すると、自ら敵兵を数十人、将校を二人切り倒し、大きな戦果をあげました。
張遼の軍勢は半日にも渡って暴れ回り、孫権軍をすっかりと意気消沈させ、防衛を成功に導いています。
曹操はこの抜群の戦功を称賛し、張遼を征東将軍に任命しました。
曹休
その他には、曹操の甥の曹休も就任しています。
曹休は軍事に関してなかなかの才能があり、曹氏の一族だったことから、取り立てを受けました。
孫権が歴陽に大将を派遣すると、これを襲撃して打ち破っています。
また、長江を渡って孫権軍の陣営を焼き打ちし、これらの功績によって曹丕から征東将軍に任命されました。
(張遼はこの頃、前将軍になっています)
その後、曹丕は孫権を討伐するにあたり、曹休を征東大将軍に昇進させ、張遼など二十数軍を指揮下に入れました。
曹休は孫権の将・呂範を撃破するなど、呉に対する戦いでたびたび戦功を立てています。
このように征東将軍は、主に魏が呉を攻撃する際の将軍位として用いられました。
日本の征東将軍
ところで日本にもかつて、征東将軍、および征東大将軍の地位が存在していました。
古代
最も古いのは、「倭の五王」の一人、武王です。
502年に梁という、中国の王朝から任命された記録が残っています。
ちなみに百済という朝鮮半島にあった国の王が、鎮東大将軍に任命されています。
東に存在する国々の王に対し、梁は将軍位を授けることで、影響下に置いていたのでした。
この武王が大和朝廷や天皇と直接関係があるのかどうかは、はっきりとしていません。
平安時代
その後、平安時代になると、朝廷によって征東将軍が任命されています。
これには歌人として知られる大伴家持が、784年に就任しました。
そして蝦夷征伐の責任者となり、陸奥国の多賀に郡を設置し、支配権を強化することを提言しています。
就任の翌年に亡くなったので、実際に戦場に出ることはありませんでした。
その後は紀古佐美が788年に征東大将軍となり、蝦夷の征伐におもむきます。
しかし蝦夷を率いる阿弖流爲と衣川で戦って大敗を喫し、軍を解散して帰京しました。
蝦夷の征伐は、征夷大将軍となった坂上田村麻呂が達成しています。
源義仲
その後も戦乱が発生するたびに、征東将軍は何度か任命されています。
有名なところでは源平の争乱のころに信濃で挙兵し、平家を追い出して京を制圧した源義仲が、1184年に就任しました。
しかし義仲の部下や同盟軍の者たちが京で乱暴狼藉を働いたため、義仲の評判はひどく悪化していきました。
これが原因となり、やがて源頼朝によって京から追われます。
その後、頼朝が大将軍の位を朝廷に請求するのですが、征東大将軍は義仲の前例があり、縁起が悪いという理由で、1192年に征夷大将軍が授けられることになります。
そして頼朝が鎌倉に幕府を開いたことで、「将軍=征夷大将軍」として定着していきますが、これは義仲の評判の影響があってのことだったのでした。
足利尊氏
やがて、1333年には鎌倉幕府も滅亡しますが、1335年に北条氏の残党が反乱を起こし、鎌倉を占拠する事件が発生します。
この時に足利尊氏は、反乱を討伐をするために征夷大将軍への任官を求めましたが、後醍醐天皇は許可しませんでした。
このため、尊氏は勅許を得ないまま出陣し、天皇はやむなく征東将軍の地位を与えることで追認しています。
頼朝が征夷大将軍になって幕府を開いた前例がありましたので、尊氏が同じ事をするのではないかと、天皇は警戒したのでした。
このように日本では、征東大将軍は征夷大将軍と並び立ち、政治的な駆け引きの中で任命されることが多い地位となりました。