司徒とは 三国志では王允や王郎が就任

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司徒しとは中国の官職名で、教育や人事、土地、財貨などを司る地位です。

民衆の暮らしや統治に関わる立場だったのだと言えます。

初めて設置されたのは周(前1046-前256年)の時代で、当時は六卿りくけいのうちのひとつでした。

六卿とは、6名の行政の最高官のことで、現代の大臣にあたります。

司徒は役割からして、文科、農務、財務省などを統括する立場にあったのでした。

名称の変遷

周代は大司徒という名前で、土地を司る「地官」に位置づけられていました。

前漢の時代には丞相じょうしょうが同等の役割を担っていましたが、元寿2年(西暦1年)、哀帝が再び大司徒に改称します。

そして後漢の時代になると、建武27年(西暦51年)に、大司徒が司徒と改められました。

このようにして、名称は頻繁に変更されています。

後漢において司徒は、司空しくう太尉たいいと並んで「三公」に数えられています。

三公とは、3名の最高位の大臣のことで、以前に設定されていた六卿よりも、格上の立場です。

こうして司徒は古代中国の国政において、重要な位置を占めたのでした。

三国志おける司徒

三国志では、董卓を暗殺した王いんが司徒の地位にありました。

董卓が暴政を働く中で、王允は行政官としての優れた力量を発揮し、献帝から信頼を受けました。

そして呂布と結んで董卓を排除し、朝廷の立て直しをはかりましたが、董卓の残党に殺害され、失敗に終わっています。

曹操によって廃止される

戦乱を制し、朝廷を支配するようになった曹操は、208年になると、丞相の地位を復活させて自ら就任しました。

そして司徒を含む三公の制度を廃止します。

これによって曹操と側近たちに、朝廷の権限が集中することになります。

やがて後漢が滅亡し、曹丕によって魏が建国されると、司徒は復活しましたが、実権は乏しくなっており、功労者に与えられる名誉職と化していきます。

王郎や董昭といった老臣たちが就任しました。

皇帝が直属機関である尚書しょうしょに属する者たちと、親政を行う傾向が強まった結果、司徒ら大臣たちの権限は削減されたのでした。

なお、蜀においては諸葛亮が丞相になりましたが、補佐役として司徒も設置され、許靖きょせいが就任しています。