宗預 孫権と渡り合い、諸葛瞻に媚びなかった剛直な将軍

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宗預そうよは蜀に仕え、外交や軍事に活躍した人物です。

孫権に使いをし、蜀と呉の友好関係の維持に貢献しました。

その後は60才を越えてから兵権を持ち、蜀の東方の維持に携わります。

蜀の滅亡時にも存命で、その翌年に病死し、蜀の建国から終焉までを見送りました。

この文章では、そんな宗預について書いています。

南陽に生まれる

宗預はあざな徳豔とくえんといい、荊州の南陽郡、安衆あんしゅう県の出身でした。

いつから劉備に仕えたのかは不明ですが、213年ごろに、張飛に従って蜀に入っており、その頃から名が現れています。

そして223年になると、丞相・諸葛亮によって主簿(事務長)に任じられ、参軍右中郎将(上級指揮官)に昇進しました。

呉との軋轢が生まれ、宗預が使者となる

235年に諸葛亮が亡くなると、呉の孫権は、魏が蜀の衰退につけこみ、その土地を奪取するのではないかと懸念します。

このため、荊州の防衛拠点である巴丘はきゅうの守備兵を一万人増加させました。

第一には蜀の救援に役立てるためであり、第二には、いざという時に、蜀を分割して支配するための施策でした。

蜀はそれを知ると、永安(白帝城)の守備兵を増員し、非常事態に備えます。

この時に宗預は、命を受けて呉に使いをしました。

宗預地図1

孫権との交渉に成功する

孫権は宗預に会うと、次のように問いただします。

「呉と蜀は、たとえてみれば一つの家のようなものだ。

ところが、蜀は白帝の守備兵を増員したと聞く。

これはどうしてだ?」

宗預は答えて言いました。

わたくしが思いますには、呉が巴丘の守備兵を増員すれば、蜀はおのずと白帝の守備兵を増員します。

どちらも情勢によって自然になされることであって、互いに問いただすほどのことではありません」

このようにして宗預は、近い場所に二つの城があり、片方が兵を増やせば、敵対心がなくとも、もう片方もまた、自然と対抗して兵を増やさざるを得なくなるのだという、道理を述べたのでした。

すると孫権は、動じずに返答をした宗預の剛直さを褒め、その人柄を愛するようになりました。

そして以前の使者だった、鄧芝とうし費禕ひいに次ぐ敬意を表しています。

鄧芝と年齢について話す

やがて宗預は侍中(皇帝の側近)になり、尚書(政務官)に転任しました。

そして247年には屯騎とんき校尉(将軍)となり、多くの軍勢を率いるようになります。

するとそのとき、車騎将軍(最上級の将軍)の鄧芝が任地の江州から帰還し、参内をしました。

そして宗預に「『礼記らいき(儒教の経典)』には、六十才になれば軍事には携わらないと書いてある。

にも関わらず、君はその年齢ではじめて多くの兵を預かることになった。

これはどうしてだろうな」と言いました。

すると宗預は「あなたは70才になっておられますのに、兵権を返上していません。

それなのに、どうして私が60才で兵を預かれないということがあるでしょうか」と言い返しています。

鄧芝は驕慢な性格で、大将軍の費禕ですらも遠慮して、彼を立てていました。

しかし宗預だけは、鄧芝に対してもへりくだることはありませんでした。

孫権に剛直なところを気に入られましたが、宗預はかなり気の強い性格だったようです。

ちなみに鄧芝もまた、強気な態度で孫権と外交を行ったために気に入られており、両者には似たところがあったのだと言えます。

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