孫権に別れを惜しまれる
宗預はそれから、再び呉に使いをしました。
その別れの際に、孫権は宗預の手を取り、涙を流して語ります。
「君はいつも命を受け、呉と蜀の友好関係の維持に貢献をしてきた。
いま君は高齢で、わしもまた老いて衰えた。
おそらく、もう二度と会えぬだろう」
そして餞別として、宗預に大きな真珠を一斛(約31kg)も与えました。
この頃には孫権も60才を超えており、やがて252年に亡くなっています。
昇進するも、病を得る
宗預はその後もしばらくは壮健で、後将軍に昇進し、永安(白帝城)に駐屯する部隊の指揮官となりました。
そして任地で征西大将軍に就任し、関内候の爵位を与えられます。
こうして宗預は、蜀軍の重鎮の地位を占めるようになります。
しかし258年になると、病気のために成都に召喚されました。
まだ引退はしなかったようで、後に鎮軍大将軍となり、兗州刺史(長官)にも任じられています。
諸葛瞻に会いに行かず
この頃には、諸葛亮の子・諸葛瞻が朝廷の諸事を取り仕切るようになりました。
すると同じく老将の廖化が宗預を訪ねてきて、一緒に諸葛瞻に挨拶に行こうと申し出ます。
しかし宗預は「われわれは70才を越え、すでに己に過ぎた地位をかすめ取っている。
ただ訪れていないのは死だけだ。
何を求めて年少の者を訪ねるのか。
こせこせとした事は、しない方がよい」と答え、行きませんでした。
年老いてもなお、その気概には衰えがなかったようです。
蜀が滅亡した直後に亡くなる
やがて蜀は263年に滅亡しましたが、宗預はまだ存命でした。
その翌264年の春に、宗預は廖化とともに、洛陽に移住を命じられましたが、道中で病のために亡くなっています。
この両名は蜀の建国以前から仕えており、その終焉までもを見送ってから、亡くなったことになります。
宗預評
三国志の著者・陳寿は「宗預は孫権の厳しい追求にもひるまず、称賛されるべきところがあった」と評しています。