張翼は蜀に仕えた将軍です。
各地の地方長官を務めてから将軍となり、反乱の鎮圧や魏との戦いで活躍しました。
そして姜維が軍を動かし過ぎるのを危惧していさめますが、姜維は耳を貸しませんでした。
その後もたびたび諫言をしますが、やがて蜀は傾き、ついにはその滅亡に立ち会うことになってしまいます。
この文章では、そんな張翼について書いています。
犍為に生まれる
張翼は字を伯恭といい、益州の犍為郡、武陽県の出身でした。
生年は不明となっています。
張翼は漢の高祖・劉邦に仕えて活躍した軍師・張良の子孫です。
そして高祖父の張浩は司空(大臣)を務め、曾祖父の張綱は広陵太守となりました。
とも優れた事跡を残しており、張翼は名家の出身だったと言えます。
劉備は益州を平定し、牧(長官)を兼任した際に、張翼を書佐(書記官)に任命しました。
地方の長官を歴任する
220年に孝廉に推挙されると、江陽の県長に任命され、ついで涪陵の県令となり、やがて梓潼郡の太守に昇進します。
(県長は小さな県の統治者で、県令は大きな県の統治者です)
さらに広漢・蜀郡の太守を歴任し、地方の長官として立身していきました。
この頃に、漢中をめぐる曹操との争奪戦に従軍していた、という記録もあります。
異民族の反乱に対処する
やがて231年になると庲降都督・綏南中郎将になり、蜀の南方の統治に当たります。
このあたりには異民族が多く住んでいたのですが、張翼は厳格に法を執行し、彼らの歓心を得ようはしませんでした。
やがて異民族の首領である劉冑が反乱を起こしましたので、張翼はこれを討伐しようとします。
しかしまだ達成しないうちに召喚を受け、都に戻らなければならなくなります。
部下たちはみな、ただちに馬で駆けつけ、罪に服するのがよいでしょう、と述べました。
これに対し張翼は「そうではない。
わしは蛮族が騒動を起こしたので、職務に耐えないと判断され、都に呼び戻されるのだ。
しかし、代わりの者はまだ到着していない。
だからわしは戦場に臨み、兵糧を輸送して穀物を備蓄し、賊を撃破するための資源を用意しておかなければならない。
免職されるからといって、公務を放棄するわけにはいかない」と言います。
そしてしばらく指揮を代行し続け、後任者が到着してから出発をしました。
諸葛亮に評価される
この後は馬忠が引き継ぎましたが、張翼が築いた基盤を用い、劉冑を撃破しています。
丞相の諸葛亮は、その話を聞くと、張翼を高く評価しました。
そして諸葛亮は武功に出陣した際に、張翼を前軍都督に任じ、扶風太守を兼務させます。
諸葛亮が亡くなると前領軍となり、以前に劉冑討伐に貢献したことを評価され、関内候の爵位が与えられました。
238年になると、中央に戻って尚書(政務官)となり、ほどなくして督建威・仮節に昇進しました。
そして都亭候・征西大将軍に就任します。
こうして張翼の地位は、着々と高まっていきました。
姜維に反対する
やがて蜀軍は姜維が主導するようになりましたが、張翼はともに涼州方面に出陣した後、255年に成都に帰還します。
すると姜維が、翌年も続けて出兵しようと提議し、張翼だけが朝廷の席で反対意見を述べました。
「国家が小さく弱く、民の負担が大きいので、みだりに武力を用いるべきではありません」というのがその主張でした。
しかし姜維はこの意見に耳を貸さず、張翼らを率いて出陣します。
この時に張翼は、鎮南大将軍となっています。
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