楊戯は蜀に仕え、主に文官として活動した人物です。
能力はあったものの怠惰な性格で、上司に対しても礼節を守らなかったので、やがて姜維によって免官にされてしまいました。
一方では、友情に篤く、人の優れた点を見抜ける目を持っていました。
それによって『季漢輔臣賛』という、蜀臣たちを称揚する文章を残しています。
この文章では、そんな楊戯について書いています。
犍為に生まれる
楊戯は字を文然といい、益州の犍為郡、武陽県の出身でした。
若い頃に巴西郡の程祁、巴郡の楊汰、蜀郡の張表らとともに、名を知られる存在となります。
楊戯はいつも程祁を推し、自分たちの中では最も優れているとみなしていました。
しかし丞相・諸葛亮は、楊戯の能力もまた高く評価していました。
公平な裁判を行い、評価が高まる
楊戯は二十余才で、州の書佐(書記官)から督軍従事となります。
そして軍の裁判を司りますが、法を論じ、疑わしい事件に決裁を下すと、それらが公平で妥当だという評価を受けました。
やがて丞相府に召喚され、主簿(事務長)に任命されます。
こうして楊戯は、出世の足がかりをつかみました。
官職を歴任する
諸葛亮の没後には、尚書右選郎(政務官)となりましたが、諸葛亮の後をついで宰相となった蒋琬に請われ、治中従事史になります。
蒋琬が大将軍になって幕府を開くと、再び召し寄せられて東曹掾(側近)になりました。
その後は蜀の南方の統治に携わるようになり、南中郎参軍に昇進し、ついで庲降都督(蜀南部の統括官)の副将となります。
そして建寧太守を兼任しました。
やがて病にかかったので、成都に戻って護軍監軍となり、それから外に出て梓潼太守を兼任しました。
そして再び朝廷に戻り、射声校尉(上級武官)にもなります。
このように、楊戯は内外の様々な官職を歴任しましたが、清潔かつ簡約にふるまい、わずらわしい行いはしませんでした。
蒋琬にかばわれる
楊戯が東曹掾だったころ、上司である蒋琬と議論をしていた時に、たびたび返事をしないことがありました。
これは楊戯がおおまかな性格だったからなのですが、ある人が楊戯を陥れようと思い、蒋琬にこう言い立てました。
「公が話しかけてらっしゃるのに返事をしないとは、楊戯の目上の人を軽んじる態度には、目に余るものがありますな」
すると蒋琬は「人の心が同じでないのは、人の顔がそれぞれに違っているのと同じだ。
面と向かい合う時には従い、後から文句を言うのは、昔の人も戒めているところだ。
楊戯は、わしの方針に賛成をすれば、彼の本心を曲げることになり、わしの言葉に反対をすれば、わしの非を明らかにすることになると考えたのだろう。
それで沈黙していたわけで、これはむしろ爽やかな態度だと言える」と言いました。
このように、楊戯は官吏としては性格に問題があったのですが、寛容な上司のおかげで勤めができていたようです。
姜維に疎まれて免官となる
楊戯は蜀の宰相たちに仕えて来ましたが、257年になると、大将軍の姜維に従って芒水にまで出陣します。
楊戯は普段から姜維に不服を感じており、このためにお酒が入った談笑の席で、いつも調子にのって、姜維を嘲るような言葉を吐いていました。
姜維は、表面的には寛大にふるまっていたのですが、内心では楊戯を忌み嫌い、耐え難く感じていました。
このため、成都に帰還すると司法官が姜維の意を受けて楊戯を提訴し、免官して庶民に落としてしまいます。
楊戯はこうして地位を失った後、261年に亡くなりました。
年を重ねても身を慎むことがなかったので、ついにはその身に災いを招いてしまったのです。
怠惰だったが、友情には厚かった
楊戯は怠惰で、仕事も適当に手を抜いていました。
しかし一度も、甘言を用いて人に取り入ろうとしたり、過度に誰かをひいきにするようなことはありませんでした。
文書によって仕事の指示を与える場合、その文章は短く、紙を一枚、全部使い切ることはなかったといいます。
一方では、旧知の者に対する友情は篤く、誠意と厚情を見せています。
巴西郡の韓儼や黎韜とは、幼い頃からの親友でしたが、後に韓儼は病のために廃人同然となり、黎韜は行状が悪かったので、周囲の人たちから見放されていました。
楊戯はそんな彼らの生活を気にかけて援助をし、昔からの友情を保っています。
楊戯には、そんな美点もあったのでした。
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