周羣と張裕は、蜀に仕えた予言者たちです。
ともに天文を読み取り、未来を予測する術を身につけていました。
そして周羣は漢中攻撃の結果を予測して的中させ、劉備に評価されます。
一方で張裕はこれを外した後で、漢王朝と劉備の不幸を予言したために処刑されてしまいました。
この文章では、そんな二人の予言者たちについて書いています。
巴西に生まれる
周羣は字を仲直といい、巴西郡、閬中県の出身でした。
父の周舒は若い頃、広漢の楊厚に『図讖』という未来の吉凶を占う術を学びます。
そして董扶や任安といった、その道で著名な人物たちに次ぐ名声を得ました。
たびたび招聘を受けたものの応じず、独立した研究者の地位を保っています。
当時の人が「『春秋讖』には、『漢に代わる者は当塗高だ』と書かれていますが、これはどういう意味ですか?」と周舒に質問をしました。
これは当時有名な予言だったようで、袁術はこの当塗高が示しているのは自分のことだと考え、漢に取って代わろうとしています。
周舒はこれに対し、「当塗高とは魏のことです」と返答をしました。
「塗に当たって高くそびえるものは魏(魏闕。宮城の門のこと)である」と解釈し、これによっていずれ魏が漢に取って代わると予測したのです。
彼の郷里の学者たちはそのことを言い伝えましたが、これは結果として的中したことになりました。
父から学んで予言を行う
周羣は幼い頃から父に図讖を教えられ、自然現象から未来を予測する術の習得に専念します。
庭に小楼を作り、家にたくさんいる奴僕たちを上に登らせ、交代で当番を務めさせ、天空で発生する異変をもれなく観察させました。
周羣の家は富裕で、このために父・周舒は誰にも仕えなかったのかもしれません。
奴僕たちはちょっとした変化も見逃さず、すぐに周羣に報告をしました。
すると周羣は自分で楼に登って観察し、朝も夜も関係なく、図讖の研究と予言に取り組みます。
この結果、未来を示す兆候を見逃すことがなかったので、予言はよく的中したといいます。
周羣の予言
周羣の予言とは、次のようなものでした。
まず202年に越巂(蜀南部)で、男が女に変身するという事件が発生します。
その時に周羣は、「前漢末期・哀帝の時代にも同じ事があり、これは王朝が交代する兆しだと言える」と予言をしました。
すると220年に、後漢の献帝が曹丕に帝位を奪われており、予言が的中しています。
また207年になると、鶉尾(天体の位置)にほうき星が姿を現しましたが、これは荊州で異変が起こることを意味していました。
このため周羣は「荊州の牧(長官)が死亡し、領地を失うことになるだろう」と予言をしましたが、翌年秋に劉表が亡くなり、後継者の劉琮は曹操の侵攻を受け、領地を失っています。
ついで212年には、ほうき星が五諸候(天体の位置)に出現しましたが、周羣はこれを見て「西方に領土を持つ者は、みな領地を失うだろう」と予言をしました。
すると、214年に涼州の韓遂が討伐され、益州の劉璋が領地を奪われました。
また、215年には漢中の張魯が曹操に討伐され、この予言もまた的中しています。
このように、周羣の術は優れたものだったようです。
劉璋や劉備に用いられる
周羣は父とは違い、招聘されるとそれに応じ、劉璋から師友従事(側近)に任命されました。
やがて劉備が蜀を平定すると、儒林校尉(儒者の統括官)に任じられています。
劉備はこの後、曹操と漢中の地を巡って争いましたが、周羣に未来がどうなるかを諮問しました。
すると周羣は「その土地を必ず手に入れられるでしょうが、住民を手に入れることはできないでしょう。
そして一部隊だけを出撃させると、必ず敗北します。
その点を警戒し、慎重になさってください」
張裕が別の予言をするが、周羣の予言通りとなる
この頃の益州には、後部司馬(武官の地位)を務める張裕という者がおり、周羣と同じく天空の自然現象を観察し、予言することを得意としていました。
しかも天賦の才では張裕の方が上まわっていると言われていましたが、彼は漢中への攻撃について、次のように進言をします。
「漢中の覇権を争ってはなりません。我が軍は必ず敗れます」
しかし、蜀の統治を安定させるには漢中を抑えることが必須だったので、劉備は張裕の進言を取り上げず、漢中への攻撃を開始しました。
すると守将の夏侯淵を破り、さらに曹操を撃退し、漢中の土地を手に入れることができました。
しかし住民は曹操の手によって移住させられており、蜀の人民として組み込むことはできませんでした。
そして呉蘭と雷銅を別動隊として武都に派兵したのですが、魏軍に討たれて全滅してしまいます。
この結果、周羣の「土地を手に入れても住民は手に入らない、一部隊を出撃させると敗北する」という予言は、全て的中したのでした。
このため、劉備は周羣を高く評価し、茂才に推挙しています。
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