徐庶は諸葛亮の友人で、劉備に彼を引き合わせた人物です。
もとは剣を振り回す無法者でしたが、やがて心を入れ替え、学問に励むようになります。
そして学友を得て荊州に移ると、やがて諸葛亮とも親しくなりました。
それから新野に駐屯する劉備の元に出入りするようになり、諸葛亮を紹介します。
これによって、劉備が蜀を建国するきっかけが生まれました。
徐庶もまた、劉備を補佐することを志していたのですが、母を曹操軍に捕らえられてしまったため、やむなく曹操に仕えることになりました。
この文章では、そんな徐庶について書いています。
【徐庶の肖像】
潁川に生まれる
徐庶は字を元直といい、豫州の潁川郡の出身でした。
生年は不明となっています。
初めは徐福という名で、名家の出身ではありませんでした。
史料には「単家の出身」と記されているのですが、これは「権勢のない家の出身」といった意味です。
しかし『三国志演義』の著者は「単姓の家の出身」なのだと、この言葉を読み間違えてしまいました。
このため、徐庶の元の姓名は「単福」だったと、誤って記しています。
若い頃は任侠の徒だった
徐庶は若い頃、任侠を好んで無頼の生き方をし、撃剣の使い手となりました。
そして189年になると、人のために仇討ちをし、白い土を顔に塗りつけ、髪を振り乱して逃走します。
やがて役人に捕らえられてしまいましたが、その姓名をたずねられても、口を閉ざして告げませんでした。
このため、役人は車の上に柱を立て、徐庶を縛りつけます。
そして太鼓を鳴らして市場中に布告しましたが、徐庶を知っていると、あえて名のり出る者はいませんでした。
心を入れ替え、学問に励むようになる
やがて侠客の仲間がやって来て縄を解いてくれたので、徐庶は窮地から逃れることができました。
徐庶は助けてもらったことに感激し、思うところがあったようで、ここから生き方を変えることにします。
まず、刀や戟を捨て、粗末な頭巾と単衣の服を身につけます。
このように質素な身なりをし、心を入れ替えて学問に励むようになりました。
しかし初めて塾に行くと、学生たちは徐庶が元は賊だったと知り、一緒に学ぼうとはしませんでした。
このため、徐庶は謙虚な態度を取り、早起きし、いつも一人で掃除をし、人の意をくみとって行動するように心がけます。
石韜と親しくなる
徐庶は経学(儒教)を学び、やがてその教えに精通するようになりました。
そうこうしているうちに、学生の中に徐庶と付き合う者も現れ、やがて同郷出身の石韜と親しくなります。
やがて初平年間(190〜193年)になると、董卓が台頭し、中原は戦乱に見まわれるようになりました。
このため、徐庶はこれを避け、石韜とともに荊州に移住します。
諸葛亮と知り合う
徐庶はやがて、荊州の名士である司馬徽と関わりを持ち、親しくなりました。
そして司馬徽を通じて荊州の人士と知り合うようになり、諸葛亮とも出会います。
この頃、諸葛亮はまだ無名でしたが、自分を管仲や楽毅といった歴史上の人物になぞらえており、その才能に自信を持っていました。
これを認める人は当時、ほとんどいなかったのですが、徐庶と、諸葛亮の友人の崔州平だけは「その通りだ」と述べ、諸葛亮の才能を高く評価します。
このようにして、徐庶は荊州の人々との関係を築いていったのでした。
徐庶はなかなかに、社交性のある人物だったようです。
諸葛亮とともに遊学する
200年ごろになると、徐庶は諸葛亮や石韜、そして諸葛亮の友人である孟建とともに、遊学をします。
この時、徐庶と石韜、孟建の三人は、学問を精密に研究しましたが、諸葛亮だけは大要をつかもうとし、細かいことにはこだわりませんでした。
朝晩のゆっくりとした時間には、いつも膝を抱えて話をしましたが、諸葛亮は他の三人に向かって「君たち三人は、仕官すればきっと刺史・郡守(地方長官)にまで昇ることができるだろう」と言います。
三人が「君はどうなのだ」とたずねると、諸葛亮は笑って答えませんでした。
自分のことを言わなかったのは、もっと出世するだろうと考えていても、友人たちにそれを言うのはよくないと思っていたからなのかもしれません。
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