徐庶 劉備に諸葛亮を紹介するも、母を捕らえられ曹操に仕える

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諸葛亮の嘆き

諸葛亮はやがて蜀の丞相(首相)となり、228年から、魏を打倒するために北伐を実施します。

そして涼州方面に出撃した際に、徐庶や石韜がどのような地位にあるかを知りました。

すると諸葛亮は「魏はとりわけ人物が多いのだろうか。どうしてあの二人は用いられないのだろう」と言って嘆きます。

いずれも予想通りか、それ以上の地位についたのにこう述べたので、実際には諸葛亮は両者を、もっと高く評価していたのかもしれません。

(あるいは、この頃には両者の地位が下がっていたのではないか、とも推測されています)

徐庶の場合は、御史中丞の上となると、大臣級の地位になるのですが、魏には徐庶よりも経歴が古く、曹操の霸業に貢献した功臣たちが残っていましたので、彼らをさしおいてさらに高位に就くのは、難しかったのではないかと思われます。

諸葛亮と徐庶

諸葛亮は蜀の宰相となり、部下の役人たちを戒めた際に、徐庶の名前を出しています。

「公務に携わる者は、人々の意見を参考にし、よく考えを巡らせ、主君の利益になるように務めなければならない。

もしもわずかな不満によって人を遠ざけ、意見が異なる者を非難して、検討しなおすことをいとうなら、仕事に欠陥を生じ、損失を招くことになるだろう。

異なる意見を検討しなおして、適切な施策に至るのであれば、それはやぶれた草履を捨て、珠玉を手に入れるようなものである。

とはいえ、人は苦心しても、なかなか思う通りには力を尽くせない。

ただ徐元直(徐庶)だけは、こうしたことに対処して惑わなかった。

また董幼宰とうようさい董和とうわ)は職務に携わること七年、仕事の上で至らぬ点があれば、何度も考え直し、相談にやってきた。
(董和は蜀の官吏で、諸葛亮に高く評価された人物です)

もしも元直と幼宰の勤勉な態度を慕い、国家に忠誠を尽くすことができるなら、私もまた、過失を少なくすることができるだろう」

徐庶に教示を受けたと語る

また別の機会に「昔、私は崔州平とつきあい、しばしば欠点を指摘された。

後に徐元直と付き合い、よく教え諭された。

董幼宰と一緒に仕事をしたが、いつも遠慮なく意見を言ってくれた。

後に胡偉度こいど(済)と仕事に携わったが、たびたび諫言をして間違いを止めてくれた。

私の性質は暗愚で、全てを受け入れることはできなかったけれど、この四人とは終始気が合った。

これは彼らの、直言をためらわない態度を明らかにするに足るものだ」と述べています。

このようにして、徐庶は諸葛亮にとって、別れた後も心に残るほど、重要な意味を持つ存在だったのでした。

やがて亡くなる

徐庶はその後、諸葛亮と同じ時期、234年ごろに亡くなりました。

墓碑は徐州の彭城にある、と記されています。

徐庶は彭城の相を務めていますので、この地に赴任していた際に亡くなった、ということなのかもしれません。

徐庶評

徐庶については、正史では伝が立てられておらず、魏に仕えて以後のことは、詳しくはわからなくなっています。

三国志においては、劉備と諸葛亮を引き合わせたことが大きな意味を持ちましたが、以後は魏の中で、官吏の一人として埋もれてしまったようです。

魏について記した史書『魏略』では、若い頃は志を持たなかったが、やがて発憤して徳を備えるようになった人物の一人、として評されています。

以下は想像ですが、徐庶の本来の志は、諸葛亮とともに劉備を補佐することにあったのに、母が捕らえられたために、敵対する曹操に仕えることになってしまいました。

このような経緯が徐庶の心に影をさし、魏では今ひとつ身を入れて働く気になれず、諸葛亮が期待したほどには活躍できなかった要因になっているのではないかとも、考えられます。

もしもそのまま劉備に仕えることができていたら、その後の徐庶の生き方も、史書における描かれ方も、ずいぶんと違ったものになっていたかもしれません。