王平は蜀に仕えて活躍した将軍です。
街亭で馬謖が敗れた際に、慌てずに軍勢を維持し、敗勢を支えて魏の攻勢を防ぎました。
また、攻めこんで来た張郃や曹爽を撃退するなど、主に防衛戦において戦功を立てています。
軍事だけでなく事務もこなせ、謹厳な性格だったので、やがて漢中の指揮を任され、蜀の北境を支えました。
この文章では、そんな王平について書いています。
【王平の塑像】
巴西に生まれる
王平は字を子均といい、巴西郡の宕渠県の出身でした。
元々は母方の何氏の家で養われていましたが、のちに王姓に復帰しています。
このことから、早くに父を失っていたのだと思われます。
(魏延の伝では「何平」と表記されているのですが、それはこのような経緯があったからのようです)
王平は、やがて朴胡について洛陽に行き、校尉(部将)に就任にしました。
そして219年になると、曹操の漢中討伐に従軍しましたが、その時に劉備に降伏し、牙門将・裨将軍に任じられています。
こうして王平は、蜀に仕えるようになったのでした。
馬謖の副官になる
やがて228年になると、第一回目の北伐の際に、王平は馬謖が率いる先鋒隊に所属します。
馬謖は街亭という、涼州に攻め込むための前線拠点の防衛を任されていました。
しかし諸葛亮の命令に違反し、水路を捨てて山に登り、そこに陣をかまえます。
山上では水が補充しづらいので、諸将たちからは反対の意見が具申されました。
さらに、馬謖の指示は煩雑なものが多かったので、指揮が乱れていきます。
このため、王平は馬謖を何度も諫めましたが、馬謖はこれを聞き入れなかったので、やがて街亭で大敗を喫することになります。
王平の軍は無事に切り抜ける
馬謖の兵は魏軍の攻撃を受け、ことごとく逃げ散ってしまいましたが、王平が指揮する千人の部隊だけは、陣太鼓を打ち鳴らして踏みとどまりました。
すると魏の将軍である張郃は、伏兵がいるのではないかと疑い、近づこうとはしませんでした。
そこで王平は、少しずつ諸軍の残留兵を収容し、将兵を率いて無事に帰還することに成功します。
馬謖は処刑されるも、王平は昇進する
馬謖の失敗により、蜀軍は攻撃拠点を失い、全軍撤退に追い込まれました。
諸葛亮は漢中に戻ると、馬謖や将軍の張休・李盛らを処刑し、黄襲の兵を取り上げるなど、厳しい処置を行います。
しかし王平にだけは特別な待遇を与え、参軍の官を加え、五部の兵(異民族の兵か)を統率させました。
そして位が討寇将軍に上がり、亭候の爵位をも与えられます。
こうして王平は、敗戦の中で的確な措置を取ることで、頭角を現すことになったのでした。
張郃を撃退する
231年に、再び諸葛亮は涼州に攻めこみ、祁山を包囲しましたが、この時に王平は別動隊を率いて南の軍営を守備しています。
すると魏の大将軍・司馬懿が諸葛亮を攻撃し、張郃が王平を攻撃してきました。
この時、王平は陣営を堅く守ることに徹し、張郃を撤退させています。
魏延の撃破に活躍する
その後、234年になると諸葛亮が陣中で没し、蜀軍は全軍撤退をすることになります。
しかしこの時、諸葛亮の長史(副官)である楊儀と、将軍の魏延との間でいさかいが発生しました。
魏延は楊儀の指示に従うことを嫌い、諸葛亮の遺命を無視して前線にとどまり、諸将に勝手に指示を出し、蜀軍を掌握しようとします。
その結果、楊儀たちは魏延を置き去りにして撤退を開始するのですが、魏延はこれに怒り、両者の間で戦いとなります。
王平はこの時、楊儀の指揮下に入っていました。
やがて両者は成都の近くまで戻り、そこで矛を交えることになります。
王平は楊儀側の軍勢の先鋒を務め、魏延配下の将兵たちと向き合いました。
そこで王平は「丞相(諸葛亮)が亡くなったばかりで、まだその体も冷たくなっていないというのに、おまえたちはどうしてこんなことができるのだ!」と一喝します。
魏延の将兵たちは、諸葛亮が没して間もないこの時期に、自分の地位を高めるためにもめごとを起こした魏延の方が悪いと、内心では認識していました。
このため、王平にそれを指摘されると戦意を失い、逃げ散っていきます。
こうして戦力を失った魏延は、息子たちとともに漢中まで逃げましたが、そこで追撃をかけた馬岱に討ち取られました。
このようにして、王平は魏延を一度の戦いで打ち破り、発生しかけた内戦を速やかに鎮圧することに貢献しました。
【次のページに続く▼】