呂凱は蜀に仕え、南方の辺境を守った人物です。
雍闓らが蜀に対して反乱を起こした際に、彼らからの誘いを拒絶し、蜀への節義を貫きました。
そして蜀への連絡が絶たれながらも、永昌郡を守り通したことが諸葛亮から称賛され、太守の地位を得ています。
やがて蛮族に討たれましたが、子孫が代々、永昌太守としてこの地を守り続けました。
この文章では、そんな呂凱について書いています。
不韋県に生まれる
呂凱は字を季平といい、永昌郡、不韋県の出身でした。
生年は不明となっています。
呂凱は戦国時代に秦の宰相だった、呂不韋の一族の末裔です。
不韋県の名称は呂不韋から取られていますが、これは呂氏一族が漢の武帝の時代(前141年 – 前87年)に、西南の異民族を教化する目的で、この地に移住させられたことに由来しています。
呂凱はやがて郡に出仕し、五官掾功曹(人事部長)になりました。
功曹は現地に顔がきく、有力な一族の出身者が選ばれましたので、呂凱には適した役目だったと言えます。
雍闓が反抗する
劉備が皇帝に即位し、蜀が成立した頃、永昌郡では雍闓という者が勢力を築き、蜀に対して反抗的な態度を取っていました。
そして223年に劉備が崩御すると、雍闓は不遜な態度をさらに募らせていくようになります。
このため、都護の李厳が六枚にも及ぶ手紙を送り、利害を諭しましたが、雍闓はたった一枚の返事を送っただけでした。
「『天に二つの太陽なく、地に二人の王はない』と聞いています。
いま、天下は三国が鼎立しており、三つの暦が用いられています。
このため、遠方にいる者たちは恐れと困惑にとらわれ、誰に帰服してよいのかわからないのです」
雍闓はこのように述べ、蜀への不服従を正当化したのでした。
こうして永昌郡は、不穏な情勢に包まれていきます。
呂凱は雍闓の侵入を防ぐ
やがて勢力を増した雍闓は、蜀が任命した太守を呉に追放するなど、横暴なふるまいをみせるようになりました。
そして呉に臣従を申し入れ、呉から永昌太守に任命されます。
永昌郡は益州郡の西方にありましたが、反乱によって道路がふさがり、蜀との連絡が途絶えてしまいました。
このような状況下で、呂凱と府丞(郡太守の補佐役)の王伉は官民を統率して激励し、国境を封鎖して雍闓の侵入を防ぎます。
雍闓の手紙への返信
雍闓はこれに対し、何度も永昌に檄文を送り、自分になびかせようとしました。
呂凱はこれに答え、次のように述べています。
「天が動乱を下し、姦雄が間隙に乗じたので、天下の人々はこれを悔しがり、万国の人々は悲嘆にくれています。
老若男女を問わず、みなが力の限りを尽くしており、はらわたや脳髄が土にまみれることになっても、国難を防ごうと願わない者はおりません。
伏して考えますに、将軍(雍闓)は代々漢王室のご恩を受けておられるのですから、ご自身で仲間を集め、先だって行動を起こし、上は国家のご恩に報い、下は先祖の行為を裏切らないようになさるべきでしょう。
(雍闓の先祖は雍歯といい、漢の高祖・劉邦から什方侯という爵位を与えられたことで知られていました)
そして巧名を歴史に記し、名を千載に残すべきかと存じます。
それなのに、どうして呉に従い、根本に背を向け、末節に向かおうとなさるのでしょうか。
昔、舜(古代の伝説的な王)は民の利益のために努め、蒼悟で亡くなりましたが、書物でたたえられ、その名声は今でも伝わっています。
河のほとりに埋葬されたとしても、どうして悲しむことがありましょうか。
周王朝では、文王と武王が天命を受け、成王が太平を築きました。
先帝(劉備)が位につかれますと、四海の内はそれを伝え聞いて心を寄せ、大臣は聡明であり、天から平安が下されました。
ところが将軍は盛衰の道を見極めず、成功と失敗の印をご覧になりません。
たとえば野火が草原にあり、河の氷を踏み歩くのと同じ状態です。
もしも火が消え、氷が融けたならば、いったい誰に頼ろうとなさるのでしょう。
かつて将軍のご先祖は、高祖から恨まれていながらも、候に封ぜられました。
また、竇融は光武帝に心を寄せたので、後世に名を残し、世からその栄誉をうたわれました。
いま、諸葛丞相(諸葛亮)は傑出した英才であり、兆しも現れぬうちに物事を深く見抜き、先帝の遺命を受けて孤児(劉禅)を預かっています。
そして王室の中興に尽くし、人々を疑わず、功績を取り上げ、過失は心に留めません。
将軍が心を入れ替え、態度を改められたならば、古の賢者に追随することも難しくないでしょう。
辺境の土地など、どうして支配する価値がありましょう。
かつて楚が天子への敬意を怠ると、斉の桓公はこれを咎め、夫差が覇者の名を僭称すると、晋の人々はこれを認めませんでした。
正式の君主でない者に臣従しても、誰もあなたに従いません。
(ここではいくつかの例を引き、雍闓が正統な王朝ではない呉に臣従していることを咎めています)
古からの教えを鑑みますに、臣下には国境を超えた交わりは許されていません。
だからこそ、何度も文書を受け取りましたが、こちらからは返答をしなかったのです。
しかし重ねて告示を受けたので、感情がたかぶり、食事も忘れてしまうようになったので、心にあることを述べた次第です。
どうか将軍にあっては、ご推察いただけますように」
このようにして、呂凱は蜀の正当性を主張し、雍闓からの誘いをきっぱりと拒絶したのでした。
呂凱の威光と恩愛は郡内に行き渡っており、郡の人々から信頼を得ていました。
このため、雍闓に脅かされることなく、その節義をまっとうすることがでたのです。
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