雍闓が討たれ、諸葛亮に称賛される
225年になると、蜀の情勢を安定させた諸葛亮は、軍を指揮して南征を開始しました。
するとその途上で、雍闓は同じく反乱を起こしていた、高定の部下によって殺害されます。
諸葛亮は蜀の南部に到着すると、次のように上表をしました。
「永昌の郡吏・呂凱、府丞の王伉らは、絶遠の地において忠節を貫くこと、十余年にも及びました。
雍闓・高定らが圧力をかけてまいりましたが、呂凱らは節義を守り、彼らを相手にしませんでした。
臣は、永昌の人情が、かくも誠実で正直だとは知りませんでした」
そして呂凱を雲南太守に昇進させ、陽遷亭候に封じています。
このようにして、呂凱の節義は報われたのでした。
蛮族に討たれる
こうして呂凱は立身しましたが、やがて反乱を起こした蛮族に殺害されてしまいました。
このため、子の呂祥が後を継いでいます。
呂祥は蜀が滅亡した後に、晋に南夷校尉(南方の蛮族の地の部将)として仕えました。
そして呂祥の子と孫は、代々永昌太守となっています。
やがて晋も衰え、五胡十六国の時代になると、李雄という者が益州を占拠しました。
しかし呂氏の一族は服従を拒否し、郡を挙げて防衛に努めた、という話が残っています。
呂氏の一族は代々、義理堅い性質を備えていたようです。
呂凱評
三国志の著者・陳寿は「呂凱は節操を守り、微動だにしなかった。
その長所を発揮して、名声をあげて出世したのは、彼を必要とする時代に巡り会ったためである」と評しています。
呂凱が永昌にいたのは、漢の武帝が先祖をそこに住まわせ、異民族を教化させようとしたことに由来しますが、それが数百年の時を経て、実りを結んでいたことが、呂凱にまつわる話からうかがえます。
このような施策を行うことで、古代の中国は、支配領域の拡大を図っていたようです。
そして周囲を異民族に囲まれていたからこそ、呂氏の一族には、漢民族の一員としての意識が高まっていた、という面があったでしょう。
それが漢に対する節義を高めた要因になったとも考えられます。