功曹は中国の官職で、漢代に設置されていました。
郡に所属する役人で、人事を担当し、官吏の採用や能力の査定などを行います。
現代で言えば、地方自治体の人事局長にあたる存在です。
郡の長官である太守は、地元との癒着を防ぐため、現地の出身者は任命されませんでした。
これとは反対に、功曹は郡内の出身者が選ばれることになっています。
その土地の人材を見いだし、官吏に採用する上では、地元の事情に通じた人間の方が都合がよかったからでしょう。
功曹は、役所の長官である太守や県令の任命にも関与する権限を持っており、また、従軍して軍事能力の査定をすることもありました。
このため、郡内において大きな権限を持った存在だったのだと言えます。
三国志では龐統が就任
三国志に登場する人物の中では、龐統が功曹に就任しています。
【劉備の軍師となる前には、功曹を務めていた龐統】
龐統は荊州の襄陽郡の出身であり、このためにその地の功曹になっています。
このことから、龐統は荊州で実力のある家柄の出身だったことがわかります。
龐統の伯父は龐徳といい、人物鑑定に優れることで知られていました。
龐統を鳳雛(鳳凰の雛)と呼び、諸葛亮を臥龍(眠れる龍)と呼んだのが、この龐徳です。
また、同じく人物鑑定で知られる司馬徽を水鏡と呼んだのも、龐徳でした。
その甥である龐統もまた、人物鑑定を得意としており、しかも名士の家柄の出身だったので、功曹に任命されたのです。
龐統自身も人物評価を好み、そして人材の育成にも熱心でした。
このため、やがてその名声は広まっていき、揚州の人士たちとも友誼を結ぶに至ります。
龐統の登用方針
龐統が襄陽で功曹をしていた頃の話です。
龐統が人を褒める場合、その者が持っている能力以上に称揚することが多かったので、それを不審に思う人たちがいました。
そのうちの一人が龐統に理由をたずねると、龐統は次のように答えています。
「いま天下は大いに乱れ、正しい道が衰え、善人が減って悪人が増えている。
こうした時代に風紀を向上させ、道徳を盛んにしようと願うのであれば、大げさなまでに人を褒めてやる必要がある。
そうしなければ名誉を求める者も現れず、求められなければ、善事を行う者も現れない。
十人を抜擢し、そのうちの五人がものになれば、半数は成功したことになる。
世に教化を広め、志がある者に努力をさせるには、大げさに褒めることも必要なのだ」
このように、龐統は世の実情に合わせ、人材の抜擢を行っていたのでした。
南郡の功曹にもなる
赤壁の戦いの後に荊州の南郡を、呉の周瑜が統治するようになると、龐統は南郡の功曹に就任しています。
龐統は南郡の出身ではありませんでしたが、それでも功曹になっていますので、それだけ顔が広く、人材を見いだす力が強かったことがうかがえます。
このように、龐統は劉備に仕える以前から、荊州ではよく知られた存在だったのでした。
こうした関わりがあったことから、周瑜が病死すると、龐統は遺骸を呉に送り届ける役目を担っています。
龐統の人物評と自己評価
龐統は呉を訪れた際に、若い人材と交流を持ちました。
その時に出会った顧邵に「あなたは人の能力を的確に見分けることで知られていますが、私とあなたでは、どちらが優れているでしょう」とたずねられました。
龐統は「世俗を教化し、人物の優劣を判断する能力では、私はあなたにおよびません。
しかし、帝王が用いるべき秘策を考え、変転する運命の要を見いだし、それをつかみ取る力は、私の方が優れているでしょう」と答えました。
顧邵はそれがもっともだと思い、龐統と親しくつきあうようになります。
その後、顧邵は豫章郡の太守になり、教育を盛んにし、優秀な人材を採用し、郡の発展と治安の改善に成功しています。
そして龐統はというと、劉備に仕えて益州の奪取を進言し、蜀が建国される契機を作り出しています。
このように、龐統は自分も他人も的確に評価する能力を持っており、それゆえに功曹に適した人物だったのだと言えます。