桓階は曹操に仕え、信頼を受けた人物です。
見識に秀でているだけでなく、恩人の遺骸をもらい受けにいったり、窮地に陥っている人を救うなど、厚く義心を備えてもいました。
魏の後継者に曹丕をすえるようにと熱心に推したことで信頼され、曹丕の皇帝就任後に重用され、一族も栄えました。
この文章では、そんな桓階について書いています。
長沙に生まれる
桓階は字を伯緒といい、荊州の長沙郡臨湘県の出身です。
祖父も父も、州郡の高官を歴任していました。
父の桓勝は尚書(政務官)となって中央に上っており、南方ではよく知られています。
桓階は初め、郡に仕えて功曹(人事官)になりました。
やがて長沙太守の孫堅が、桓階を孝廉に推挙したので、尚書郎に任命されます。
しかし父が亡くなったので、桓階は郷里に戻りました。
孫堅の遺体をもらい受ける
その後、孫堅は荊州を支配するようになった劉表を攻撃しましたが、返り討ちにあって戦死します。
すると、桓階は危険を犯して劉表の元を訪れ、孫堅の遺体を貰い受けたいと申し出ます。
桓階はこういった形で、孫堅から受けた恩を返そうとしたのでしょう。
劉表はその義心をかって、これを認めました。
このように、桓階は義理堅く、勇敢な人物でした。
曹操に味方するように進言する
それからしばらくすると、曹操と袁紹が官渡で対峙するようになり、劉表は州を挙げて袁紹に味方しようとします。
すると桓階は、太守の張羨に向かって言いました。
「事を始めてもそれが義に基づいてないのであれば、必ず敗者になります。
ゆえに斉の桓公は諸侯を率いて周を尊び、晋の文候は叔帯を放逐して王を都に入れました。
いま袁氏はこれに反しているのに、劉牧(劉表)は呼応し、災いを招く道を選ぼうとしています。
明府が功名を立て義を明らかにし、福を全うして禍を遠ざけたいとお考えであるのなら、同じ道を選んではいけません」
張羨が「ならば、どちらに向かえばよいのだ?」とたずねます。
桓階は「曹公(曹操)は弱いとはいえ、義によって決起し、朝廷の危機を救い、王命を奉じて罪ある者を討っており、どうして服従せずにおられましょうか。
四郡を挙げて三江を保ち、その到来を待ち、内応するのがよろしいでしょう」
すると張羨「よし」と言い、長沙と近隣の三郡をもって劉表に反逆し、曹操に使者を送りました。
曹操は大いに喜びます。
敗北して退官する
しかしその後、曹操は袁紹との戦いにかかりきりになったので、南進することはできませんでした。
すると劉表は張羨を急襲し、ほどなくして張羨は病死します。
そして城が陥落したので、桓階は身を隠しました。
こうして桓階の策は失敗に終わりましたが、やがて劉表は桓階を従事祭酒に取り立て、妻の妹である蔡氏との結婚を求めてきます。
桓階はすでに結婚していると答え、これを断りました。
そして病気を理由に退官しています。
曹操に起用される
その後、袁氏を打倒した曹操は南征を開始し、荊州を平定しました。
そして桓階が張羨のために策を立てたと聞き、このことを買って丞相掾主簿(大臣の側近)に起用し、趙郡太守に任命します。
魏国が建国されると、虎賁中郎将(近衛隊長)と侍中になり、王となった曹操の側近になりました。
曹丕を大事にするように献言する
このころ、太子はまだ定まっておらず、臨菑侯の曹植が曹操の寵愛を得ています。
桓階は数回に渡り、曹丕の徳が優れており年長なので、太子にするべきだと上申しました。
公の席でそう述べるだけでなく、内密に諫言するなどしており、その活動は懇切なものでした。
桓階は次のように諫言しています。
「いま、太子(曹丕)の仁は君子に冠たるもので、その名声は国中に明らかで、仁と聖徳、節義に達しているさまを、天下に聞かない者はありません。
しかし大王は曹植様のことを初めに臣に問われましたので、臣は誠に困惑しています」
これを聞いた曹操は、桓階が篤実で正道を守るものだと知り、ますます重んじるようになりました。
毛玠や徐奕をかばう
朝臣の毛玠や徐奕は、剛直であるがゆえに、仲間が少なくなっていました。
このため、西曹掾の丁儀によく思われず、短所をあげつらわれることがありました。
その時、桓階がかばったので、彼らは身の安全を保つことができました。
桓階は人のよいところを伸ばし、欠点を匡正するように働きかけて救ってやることが多く、このたぐいの話がいくつもあります。
やがて尚書に転任し、人材の選抜を担当しました。
関羽への対応に意見を述べる
やがて荊州において、守将の曹仁が関羽に包囲される事態が発生します。
曹操は将軍の徐晃を派遣し、これを救援させます。
しかし包囲が解けなかったので、曹操は自ら南征しようかと計画し、群臣たちに意見を聞きました。
すると群臣たちはみな、「王が速やかに行かれなければ、今にも敗れましょう」と述べます。
桓階はひとり「大王は曹仁たちが事態に対応できると思われますか。思われませんか?」とたずねます。
曹操は「できる」と答えます。
桓階は「大王は二人の将軍が力を発揮できないことを心配されていますか?」とたずねます。
曹操は「いいや」と答えます。
桓階は「ならばどうして自ら行かれるのでしょう?」とたずねます。
曹操は「わしは敵の数が多く、徐晃らの勢力では対処しきれないことを懸念している」と答えます。
桓階は「いま曹仁たちは重囲の中におりますが、これを死守して裏切ろうなどと考えないのは、大王が遠方で勢力を持っておられるからです。
万死の地にあれば、必ず死を覚悟して戦う心を持つものです。
そして死を覚悟して戦えば、外から強力な救援がやってきます。
大王が六軍を備えてその余力を示しているのに、どうして敗北を憂いて自ら行かれる必要があるでしょう?」
曹操はこの言葉を受け入れ、摩陂に軍勢を駐屯させるにとどめます。
すると徐晃らが奮闘し、関羽は敗北し、撤退しました。
曹丕の見舞いを受ける
曹丕が魏の皇帝になると、桓階は尚書令(政務長官)に昇進します。
そして高郷亭候の爵位を与えられ、侍中の官が加えられました。
やがて桓階は病気になりましたが、曹丕は自ら見舞い、次のように言います。
「わしは子供を託し、天下の命運を卿に預けようと思っているのだ。がんばってくれ」
曹丕は後継者が定まらなかったころ、桓階が自分を推薦していたことの恩を深く感じていたようで、厚遇しています。
やがて亡くなる
その後、安楽郷候になり、六百戸の領邑が与えられました。
また、桓階の三人の子は関内侯の爵位を与えられます。
桓祐は嗣子でしたが、封侯されずに病気で亡くなりました。
その彼にも関内侯が追贈されています。
後に桓階の病が重くなると、使者が派遣され、太常に任命されました。
桓階が亡くなると、曹丕は涙を流し、貞侯とおくりなしています。
桓嘉が後を継ぐ
子の桓嘉が後を継ぎました。
桓嘉は升遷亭公主(皇族の娘)と結婚しています。
桓嘉は嘉平年間(249-254年)に楽安太守として、東関で呉との戦いに遭遇しました。
その時、魏は大敗を喫し、桓嘉は戦死しています。
壮候とおくりなされました。
子の桓翊が後を継いでいます。
その他には、桓階の弟の桓纂は散騎常侍に取り立てられ、関内侯の爵位を与えられました。
一族が厚遇されていることに、曹丕の桓階に対する思いを見ることができます。
桓階評
三国志の著者・陳寿は「桓階は成功と失敗をよく見極め、その才能は当時にあってあまねく知られた」と評しています。
桓階は人の危機を救うなどし、人徳を備えており、軍事に関しても的確に意見できるなど、見識も秀でていました。
そして曹丕を後継者に強く推したことで、一族が栄えることにもなっています。
人格も能力も優れていたのですから、曹操と曹丕に尊重されたのも、当然のことだと言えるでしょう。