陳羣 九品官人法を定め、見識と高潔さを兼ね備えた魏の宰相

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陳羣ちんぐんは劉備や曹操に仕えた人物です。

見識があるだけでなく、高潔で道義をわきまえており、このために引き立てを受けました。

魏が建国されると、司空しくう(大臣)や大将軍の地位を得て、司馬懿らと並ぶ重臣となりました。

そして浪費癖のある曹叡が帝位につくと、たびたびその品行を諌めています。

この文章では、そんな陳羣について書いています。

許昌に生まれる

陳羣はあざな長文ちょうぶんといい、州の潁川えいせん郡・許昌きょしょう県の出身です。

祖父の陳しょく、父の陳、叔父の陳しんは、いずれも世に名を知られた存在でした。

豫州の民はこの三人の肖像を掲げるほどに慕い、陳寔が亡くなった時には、三万もの人々が会葬に訪れるほどでした。

陳羣が子供のころ、陳寔はその才能を高く評価し、一族の長老たちに「この子は必ず、我ら一族を興隆させるだろう」と述べました。

このように、陳羣は世に知られた一族の中でも、特に秀で、期待されていたのです。

陳羣出身地地図

孔融によって名を知られる

国の孔融こうゆうは、才能があるものの、傲慢な人物でした。

年齢は陳紀と陳羣の間くらいでしたが、先に陳紀と友人になり、後から陳羣と交際します。

そして陳羣の才能を知ると、そのことで改めて陳紀に拝礼したので、陳羣はその名を広く知られるようになりました。

劉備の側近になる

劉備は豫州の刺史(長官)になると、陳羣を別駕べつが(側近)として招聘します。

劉備は陳紀に師事しており、この点でつながりがありました。

やがて徐州刺史の陶謙とうけんが病死すると、徐州の人々は劉備を迎えようとします。

劉備はこれに応じようとしましたが、陳羣は劉備に説きました。

「袁術はなお強大です。

いま東(徐州)に向かえば、必ず争いとなりましょう。

そして呂布がもし将軍(劉備)の後方から襲撃してきたら、将軍は徐州を得たとしても、成功を収めることはできないでしょう」

しかし劉備は徐州に向かい、袁術と戦いました。

すると呂布が下邳(徐州の州都)を襲撃し、袁術は兵を送って助けたので、劉備は大敗を喫します。

劉備は陳羣の意見を採用しなかったことを悔やみました。

呂布が敗れると、曹操に招聘される

陳羣は茂才に推挙され、しゃの県令に任命されましたが、行きませんでした。

そして陳紀が徐州に避難するのに随行しています。

やがて呂布が敗れると、曹操は陳羣を司空西曹掾属えんぞく(大臣の属官)として陳羣を招聘しました。

曹操が取り立てた人物を批判する

この時、楽安の王模おうぼと、下邳の周逵しゅうきを推薦する者たちがおり、曹操は彼らも招聘しています。

すると陳羣は命令書を送り返し、王模と周逵は道徳を穢す者たちなので、必ずこの人事は失敗します、と告げました。

しかし曹操はこれを聞き入れませんでした。

後に王模と周逵はいずれも不正を働いて処刑される結果となり、曹操は陳羣に謝っています。

陳羣が推薦した人物は活躍する

一方で、陳羣は広陵の陳きょうと、丹陽の戴乾たいけんを推薦し、曹操はどちらも起用しました。

後に呉で反乱が起きた際に、戴乾は忠義を貫いて戦死し、陳矯は名臣となります。

このことから世の人々は、陳羣には人を見る目があると評価しました。

立身する

陳羣はしょうさん長平ちょうへいの県令を歴任しましたが、父が亡くなったので官を去っています。

その後、司徒掾となり、高く評価されて推挙され、治書侍御史じぎょし(監察官)になりました。

そして参丞相軍事に転任します。

魏が建国されると、御史中丞ぎょしちゅうじょう(監察長官)に昇進しました。

肉刑について意見を述べる

このころ、曹操は肉刑(肉体の一部を傷つける刑罰)を復活させるかについて議論をしています。

そして命令を出し「道理と古今に通じた君子を得て、このことを定めることができようか。

その昔、陳鴻臚こうろ(陳紀)が、死刑には仁や恩愛を加えるべきものがあると言ったのは、正にこのことだろう。

御史中丞(陳羣)は父の論を申し述べることができるか?」と問いました。

陳羣は返答します。

「臣の父の紀は、このように述べました。

『漢は肉刑を除き、むち打ちの刑を増やしました。これは本来は、仁愛によって行われましたが、かえって死者が増えることになりました。

いわゆる、名は軽くとも、実際には重いものだったのです。
名が軽ければ罪を犯しやすく、実質が重ければ民が傷つきます。

書には『これ五刑(一つの死刑と四つの肉刑)を敬し、三徳を成せ』とあります。

えき』には鼻を削ぎ、足首を切る法が記されています。
これは政治を輔佐し、教化を助け、悪をこらしめ、死刑をやめるためのものでした。

殺人の罪を死で償うのは、古代の制度に合致しています。
人を傷つけた場合に、鞭打ちによってその体を傷つけ(処刑し)、髪を切るのはその道理にかないません。

もし古代の刑罰を用い、姦淫した者をさん室に下して宮刑(去勢刑)に処し、盗みを働いた者の足をそぐのであれば、永久に淫らなことをする者や、人の家に侵入する者はいなくなるでしょう』

三千の罪状を復活させることはできませんが、現代の患いとなっているいくつかの罪については、先に施行するべきでしょう。

漢の法律では、殺人の罪は死刑になりましたが、これは仁の及ばざるところです。

その他の死刑囚は減刑すべきです。
そうすれば、刑を受けた者も生者の仲間になれます。

いま、鞭で死なせる刑をもって、肉刑の代わりとしていますが、これは人の手足を重視して、その本体と生命を軽視することです」

この時、鍾繇しょうようが陳羣の議論に賛成しました。

一方で、王朗おうろうら多くの論者は、肉刑を実施することに反対します。

曹操は陳羣と鍾繇の言葉に深く賛同しましたが、まだ軍事が収束しておらず、多くの者の議論を考慮して、ひとまず沙汰止みとしています。

曹丕からも尊重される

その後、陳羣は侍中となり、丞相の東西の曹掾そうえん(大臣の属官)を配下としました。

朝廷にあって、自分の好みで人を判断せず、名誉と道義をよりどころとし、道に外れたことを人にやらせることはありませんでした。

曹丕は太子だった時、陳羣に深く敬意を抱き、友人としての礼をもって待遇します。

常に嘆息して「わしには顔回がんかいがいるから、門人たちは日ごとによくなっていく」と述べました。

顔回は孔子の高弟で、道義をわきまえ、師の思想をもっともよく理解していた、とされる人物です。

陳羣がいれば、朝廷の人士の質が高まっていく、と曹丕は評価していたことになります。

曹丕は魏王になると、陳羣を昌武亭侯に封じ、尚書に任命しました。

九品官人法を制定し、さらに立身する

このころ「九品官人法」という、官職を九つの等級に分ける制度が作られましたが、これは陳羣の建議によるものでした。

この制度は随の時代になるまで、官僚登用の制度として用いられます。

間もなく漢から魏に時代が移行しますが、それにあたり、漢に仕えている従来の役人たちの査定を、新制度によってやり直す意図もあったのではないかとされています。

曹丕は皇帝に即位すると、陳羣を尚書僕射ぼくや(政務副長官)に任命し、侍中の官を加えます。

やがて尚書令(政務長官)に地位を進め、えい郷侯の爵位を与えました。

こうして陳羣は、魏の官僚たちの頂点に立ちます。

軍事にも携わる

曹丕が孫権を討伐するために広陵に到着すると、陳羣に中領軍(中央軍司令官)を兼任させました。

曹丕は帰還する際、仮節(指揮権)を与えて水軍を統率させます。

そして許昌に戻ると、陳羣を鎮軍大将軍に任命し、中護軍と録尚書事ろくしょうしょじ(行政長官)を兼任させました。

このようにして、陳羣の地位はますます高まります。

曹丕からの信頼が厚く、魏の宰相とも呼べる地位にあったのだと言えます。

曹叡の補佐を命じられる

やがて曹丕は病に倒れると、陳羣と曹真、司馬懿らに遺詔を与え、後継者の曹えいを補佐するようにと命じました。

曹叡が即位すると、潁陰えいいん侯に爵位が進み、五百戸を加増されます。

これによって、以前からものと合わせて千三百戸になりました。

そして征東大将軍の曹休、中軍大将軍の曹真、撫軍大將軍の司馬懿らと並んで、府を開設します。

これによって、自分の権限で属官を任命できるようになりました。

やがて司空(大臣)となり、もとの通り録尚書事も続けています。

曹叡に上奏する

曹叡が政治に携わるようになると、陳羣は次のように上奏しました。

「『詩経』には、『文王を手本とすれば、全ての国が信頼し、従う』とあります。

また『正妻に手本を示し、兄弟に及ぼし、もって家と国を治める』とも言います。

道徳は近くから始まり、その影響は天下にあまねく行き渡ります。

動乱が始まってからというもの、戦いはいまだ収まらず、民は王の教えの根本を理解しておらず、その後退がはなはだしいことを怖れます。

陛下は魏が興隆している時に政権を担われ、二祖(曹操・曹丕)の事業を背負っておられます。

天下の人々は至高の統治が行われることを希望しております。

徳を高められ、教化を広め、庶人をいたわれば、兆の民は甚だしく幸福になります。

臣下が君主に付和雷同し、良し悪しの判断を曇らせてしまうのは、国家にとって大きな患いとなります。

もし臣下の間に不和があれば、党派同士の争いが生じます。

党派の争いがあれば、毀誉褒貶きよほうへんが果てなく広がります。

毀誉褒貶に果てがなければ、真偽はその実態を失います。

深く備えをなし、その源流を絶たなければなりません」

蜀への攻撃に反対する

太和年間(227-232年)に曹真が上奏し、複数の道から蜀を征伐し、斜谷やこくから侵入したいと申し出ました。

これに対し、陳羣は次のように意見を述べます。

「太祖(曹操)はその昔、陽平に至って張魯を攻撃しました。

その時、多くの豆や麦を収穫し、軍の食糧に割り当てましたが、張魯が降伏しないうちに、食糧は足りなくなりました。

いまは攻撃の拠点がない上に、斜谷は険阻な土地で、進退が困難です。

食糧を輸送すれば必ず発見され、かすめ取られてしまいます。

多くの兵に要害を守らせれば、戦士に損失をもたらすことになります。

よく熟慮しなければなりません」

曹叡は陳羣の意見を採用し、攻撃は行われませんでした。

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