陳泰 姜維を撃退した魏の将軍

スポンサーリンク

陳泰ちんたいは蜀との戦いで活躍した魏の将軍です。

優れた判断力と作戦能力を備えており、二度に渡って姜維きょういの攻勢を撃退しました。

また、司馬氏の一族との関係が良好だったので、中央に戻ってからも重用されています。

この文章では、そんな陳泰について書いています。

陳羣の子として生まれる

陳泰はあざな玄伯げんぱくといい、魏の大臣だった陳羣ちんぐんの子です。

青龍年間(233-237年)に散騎侍郎となっています。

正始年間(240-249年)になると、游撃ゆうげき将軍、へい州刺史になりました。

その後、振威将軍の号を加えられ、使持節・護匈奴ごきょうど中郎将となり、異民族を懐柔し、はなはだしく威厳があり、恩恵をほどこします。

都の貴人たちは多くの資金を送り、陳泰に市で奴婢を購入させようとしました。

しかし陳泰はそれらをみな壁にかけておき、封を開くことすらしませんでした。

やがて都に召喚され、尚書(政務官)になってから、それらをことごとく返還しています。

西方の軍事を担当する

嘉平の初め(249年)、郭淮かくわいに代わってよう州刺史となり、奮威ふんい将軍の号を加えられました。

このころ、蜀の大将軍である姜維は、兵を率いてきく山により、二つの城を築きます。

そして牙門将の句安くあん李歆りきんを遣わし、これを守らせました。

また、きょう族から人質を取り、諸郡に侵攻したり圧迫させたりします。

郭淮に策を提案する

征西将軍になっていた郭淮は、陳泰にどのように防衛するべきか、相談しました。

陳泰は次のように答えます。

「麴城は堅固ですが、蜀からは険しい道によって隔てられており、食糧を輸送してこなければなりません。

羌族は労役を嫌がっており、喜んで蜀の味方をしているわけではありません。

いまこれを包囲して奪い取れば、刃を血で染めることなくして、城を落とすことができます。

救援が来たとしても、山道は険しいので、兵を行軍させるのは困難です」

郭淮や陳泰の計画を採用し、陳泰に討蜀護軍の徐質と、南安太守の鄧艾とうがいを率いさせ、兵を進めて麴城を包囲します。

そして輸送路と、城外からの水の流れを遮断しました。

姜維を撤退させ、麴城を降伏させる

句安らは戦いを挑んで来ましたが、陳泰はこれに応じませんでした。

このため、蜀軍の将士は困窮し、食糧を配分し、雪を集めて水分を取り、籠城できる期間を引き伸ばします。

やがて姜維が救援にやってくると、牛頭山から出撃して陳泰と対峙しました。

陳泰は「兵法では、戦わずして敵を屈服させることを貴ぶ。いま牛頭の道を絶ち、姜維の撤退路がなくなれば、捕らえることができよう」と述べます。

そして諸軍にはそれぞれの陣営を堅く守り、戦わないようにと命じました。

使者を郭淮に送り、自身は南に渡って白水を越え、水路に沿って東に向かうので、郭淮は牛頭におもむき、退路を遮断してほしいと伝えます。

これによって句安らだけでなく、姜維をも捕らえてしまうべきだというのが、陳泰の作戦でした。

郭淮はこの策を承認し、諸軍を率いてとう水にまで進軍します。

この事態を姜維は怖れ、逃走しました。

句安らは孤立してしまったので、みな降伏します。

こうして陳泰の的確な策によって、姜維は退けられたのでした。

征西将軍になり、姜維の侵攻に対処する

郭淮が亡くなると、陳泰は代わって征西将軍・仮節都督、雍涼諸軍事(西方の軍事統括)になります。

後年、雍州刺史の王経おうけいが陳泰に意見を述べました。

「姜維と夏侯覇かこうはは三つの道を通り、祁山きざんと石営と金城に向かおうとしています。
兵を為翅いしに進め、涼州の軍勢を枹罕ほうかんに向かわせ、討蜀護軍を祁山に向かわせましょう」

陳泰は情勢を分析し、蜀軍の勢力では、三つの道を進むのは不可能だろうと判断します。

また、軍勢を分散するのは悪い策であるし、涼州の境を越えることも適切ではないと考えます。

このため王経に「定期の報告を受けて審査し、その意向は理解した。東西の軍勢がすべて集まってから進軍しよう」と答えました。

王経が敗北する

この時、姜維らは数万人を率いて枹罕に至り、狄道てきどうへと向かいます。

陳泰は王経に、狄道に進軍して駐屯し、他の軍勢が到着するのを待って、敵の攻略に取りかかるようにと命じました。

そして陳泰は軍を陳倉ちんそうに進めます。

王経配下の諸軍は、古い関所のあたりで蜀軍と戦い、不利な状況になりました。

このため、王経は洮水を渡って援護に向かいます。

陳泰は、王経が狄道を堅く守らなかったので、必ずや変事が発生するだろうと考えました。

このため、五つの軍営の兵を前進させ、陳泰は諸軍を率いてこれに続きます。

そのころ、王経は姜維と戦いましたが大敗を喫し、一万あまりを率いて狄道城に戻りましたが、残りはみな逃げ散ってしまいました。

こうして陳泰が予測した通りに変事が発生し、魏軍は危機に陥ります。

姜維の動きを論評する

姜維は勝ちに乗じて狄道を包囲し、攻略しようとしました。

一方で陳泰は軍を上邽じょうけいに配置し、要所を守らせます。

そして昼夜を問わず軍勢を前に進めました。

やがて鄧艾、胡奮こふん王秘おうひらが到着したので、すぐに鄧艾、王秘と軍を分けて三軍とし、隴西ろうせいにまで到達します。

この時、鄧艾たちは次のように主張します。

「王経の精鋭が西で大敗したので、賊軍は士気が高まっています。勝ちに乗じた軍勢に立ち向かうのは困難です。将軍は烏合の衆を率いている上に、敗北の後ですので、将士は気力がなく、隴西は傾き、揺れ動いています。

古人は『マムシが手をさせば、壮士はその手を切り離す』と言い、孫子は『兵ある所を撃たず、地がある所を守らず』と述べています。小さな所で損失があっても、大きな所を保つことはできるからです。

いま隴右の損害はマムシの害よりも大きく、狄道の地は防衛していないわけではありません。
姜維の兵は避けるべき鋭鋒を備えています。要害を守って自らを保ち、隙をうかがって敵の疲弊を待ち、然る後に進軍して救援しましょう。

これがよい計略です」

陳泰は次のように答えます。

「姜維は軽装の兵を率いて深く侵入し、我らと原野において鋭鋒を争い、一戦の勝利を求めている。
王経は城壁を高くし、とりでを深くし、その鋭気をくじけばよかったのだ。
しかし戦ったために、賊は計画どおりに物事を進めることができ、王経は打ち破られて逃走し、狄道に封じ込められた。

もし姜維が戦勝の威をかって兵を進めて東に向かい、櫟陽れきように積み上げられた穀物をよりどころにし、兵を放って降伏を促し、羌族を招き入れ、東の関・隴で争い、四郡に檄を飛ばせば、我らにとって悪しき事態になっていただろう。
しかし姜維は勝ちに乗じた兵を険しい城の攻略に向かわせ、鋭気のある士卒の力をくじき、その生命を費やさせている。
これによって攻守の勢いが変わり、主客が逆転した。

兵書には『おおだて橨榲ふんおん(攻城兵器)を整え、三ヶ月かかって完成する』という。
軽装の兵で遠くに侵入しているのだから、姜維にいかな計略があろうとも、攻城兵器を用意できはしまい。
遠くまで遠征している軍勢は、食糧の運搬が途切れがちなものだ。
これは我が軍が速やかに進撃し、賊軍を打ち破るべき時だ。
いわゆる『素早い雷には耳をふさぐ暇がない』というものであり、自然の勢いである。

洮水が周囲をめぐり、姜維らはその内側にいる。
いま高所に登り、その頂上を占領して敵に臨めば、必ず戦わずして逃走する。
侵攻してきた者と包囲されたものを長く放置することはできない。
君たちはどうしてこのようなことを言うのだ」

陳泰はこのように、進撃して姜維を撃退する作戦を実行に移しました。

スポンサーリンク


姜維を撤退させる

陳泰は軍勢を進めて高城嶺を突破し、密やかに行軍します。

そして夜のうちに狄道の東南にある高い山の上に到達しました。

それからたくさんの烽火のろしを挙げ、太鼓と角笛を鳴らさせます。

狄道の城中にいた将士は、その様子を見て救援がやってきたことを知り、みな奮起して躍り上がりました。

姜維は初め、救援の軍勢は、集結を待ってから出発するだろうと考えていました。

しかしいきなり到着したと知り、以前から計画されていた奇計があるのではないかと思い、上下ともに震撼します。

軍が隴西を出発してから、山道は深く険しいもので、蜀軍は必ず伏兵を用意しているだろうと考え、陳泰はいつわって南道を通るふりをしました。

姜維は果たして、三日に渡って伏兵を配置しています。

魏軍は密かに行軍し、その南側に姿を表しました。

すると姜維は山にそって突撃し、陳泰と交戦します。

姜維は勝利できず、そこから涼州へと軍を引きました。

そして金城を通って南に移動し、沃干阪よくかんはんに到達します。

陳泰は王経と密かに連絡を取り、ともにその帰路に向かうことにしました。

姜維はこのことを知ると、ついには遁走したので、狄道の城中にいた将士は、外に出ることができました。

王経は嘆息し、「食糧はあと十日分もないほどでした。危機に応じて救援がなければ、城をあげて壊滅する他なく、一州を失うことになっていたでしょう」と述べました。

陳泰は将士をねぎらい、前後にわけて帰還させます。

そして軍を差し向けて守備につかせ、城を修理させてから、上邽に帰還し、そこに駐屯しました。

こうして陳泰は的確な判断によって姜維の攻撃を防ぎ、領土の喪失を回避したのでした。

陳泰への朝廷の評価

これよりも以前のこと、陳泰は王経が包囲されたと聞き、州軍の将士はみなもとより心を一つにし、加えて城を保つ力があるから、姜維が簡単に城を攻め落とせはしないだろうと判断します。

そして軍を昼夜を問わず進軍させ、迅速に到着すると上表しました。

多くの者たちは「王経は逃走し、城は守り切れるだけの力がない。姜維がもし涼州への道を遮断し、四郡の民と蛮族と合同し、関・隴の要害を押さえれば、王経の軍は壊滅し、隴西は攻略されるだろう。なので四方からの兵を結集させて大軍を編成し、それから攻撃して討伐するべきだ」と述べます。

大将軍の司馬昭は、次のように言いました。

「その昔、諸葛亮は常にこれと同じ志を抱いていたが、達成することはできなかった。事は大きく、そして謀は遠く、姜維が担えることではない。そして城はすぐに陥落することはない。しかしながら、食糧が少ないのは危急の事態である。征西将軍が速やかに救援に向かったのは、最上の策である」

このようにして、陳泰の対応を称賛します。

陳泰はいつも、一方で有事があれば、虚報であっても天下を騒擾させることになると考え、簡単に報告を上げられるようにしてほしいと望んでいました。

駅伝を用いて書を送れば、通常よりもはるかに短く、六百里よりも短い距離で連絡ができました。

このことを知った司馬昭は、荀顗じゅんぎに次のように語ります。

「玄伯(陳泰)は沈着かつ勇敢で、決断力がある。地方の統治者の重責を担い、陥落しかけた城を救い、しかも兵力の追加を求めず、また簡単な方法で報告を上げることを望んだ。それは必ず賊を討伐できるからである。都督や大将は、このようでなければならない」

中央に戻り、呉に対応する

後に陳泰は中央に召され、尚書右僕射うぼくや(政務高官)になり、官吏の選抜を担当しました。

そして侍中と光禄大夫こうろくたいふ(皇帝の側近)の官も加えられます。

後に呉の大将である孫峻そんしゅんわい水や水に進出してくると、陳泰は鎮軍将軍、仮節都督淮北諸軍事に任命されました。

そして監軍の配下の者たちは、陳泰の指揮を受けるようにと命令が下されます。

やがて孫峻が退却すると、陳泰は軍を戻し、左僕射さぼくやに任命されました。

このようにして、陳泰は中央でも立身していきます。

父との違い

やがて征東大将軍の諸葛誕しょかつたんが、寿春において反乱を起こしました。

すると司馬昭は六軍を率いて丘頭きゅうとうに駐屯し、陳泰は行台こうだい(政庁の出先機関)を取り仕切ります。

司馬師・司馬昭はいずれも陳泰と親しい友人の間柄で、沛国の武陔ぶがいもまた陳泰と仲良くしていました。

ある時、司馬昭は武陔にたずねます。

「玄伯(陳泰)はその父である司空しくう(陳羣)と比べると、どうだろうか?」

武陔は答えます。

「道理に通じ、広くのびやかで、天下を教化することを己の任務にできるということにおいては、及びません。
統率に優れ、簡潔で、軍事において功績を立てることにおいては、父より優れています」

陳羣は政治に優れ、魏の大臣を務めた名臣でしたが、陳泰は軍事の方に才能があったのでした。

やがて亡くなる

陳泰は前後の功績によって二千六百戸の領地を与えられました。

そして子弟の一人は亭候となり、二人は関内侯かんだいこうになっています。

景元(260年)元年に亡くなり、司空を追贈され、ぼく侯とおくりなされました。

徳が減っていったと言われた

陳泰の曽祖父は陳しょくといい、太丘の県長でした。

祖父の陳紀は大鴻臚だいこうろ(列侯を司る高官)で、父の陳羣は司空(大臣)です。

代を重ねて立身し、漢と魏の時代において、いずれも広く名を知られていました。

しかしその徳は代を重ねるごとにだんだんと減少していると言われ、当時の人々から「公(陳泰・陳羣)は卿(陳紀)に劣り、卿は長(陳寔)に劣る」と言われます。

地位は登ったものの、世間の人々から見ると、だんだんと陳家の徳は衰えていると見えたようです。

陳氏の家譜を調べると、陳羣の子孫の名声や地位は衰えてしまった、と記されています。

陳泰評

三国志の著者・陳寿は「陳泰は広く救済をもたらし、まことに簡潔で、父祖の業をよく受け継いだ」と評しています。

陳泰は一族の中では珍しく軍事に通じており、姜維の攻撃をたびたび退けました。

判断は的確で、情勢の分析は明晰であり、優れた指揮官だったと言えます。

一方で、代を重ねるごとに徳が薄くなっていった、と評されるのは、父祖たちに比べると、軍事には長けていても、統治に携わり、民に恩恵をもたらすことが少なくなっていったからでしょうか。