郤正は文章力に優れていた、蜀の学者です。
蜀が健在な頃にはさほど出世をしませんでしたが、魏に降伏する際に、その文書を作成する役目を果たしました。
そして劉禅が洛陽に向かう際に、単身で随行し、劉禅が失敗をしないように補佐し、その身分を安泰なものとします。
その働きが評価され、やがて巴西郡の太守にまで立身しました。
この文章では、そんな郤正について書いています。
河南に生まれる
郤正は字を令先といい、河南郡、偃師県の出身でした。
祖父の郤険は霊帝の末年(189年)、益州の刺史(長官)となっています。
しかし税をでたらめに取り立てたために混乱を招き、盗賊の手にかかって殺害されました。
やがて天下が大乱にみまわれたために、父・郤揖はそのまま蜀に留まります。
そして郤揖は将軍・孟達の営都督となりましたが、孟達に従って魏に降伏し、中書令史(皇帝の秘書)となりました。
一人で暮らし、学問に励む
郤正は元の名は郤簒と言いましたが、改名しています。
若い頃に父が亡くなり、母が再婚をしたので、一人で暮らしを立てていました。
貧しかったものの、学問を好み、広く古典を読みこなします。
そして二十才の頃には巧みに文章を書けるようになっており、宮廷に仕えて秘書吏(上奏文の管理官)となりました。
そして秘書郎となり、やがて秘書令にまで昇進します。
文学を好んでいた
郤正は名誉や実利には淡泊な性格で、文学に耽っていました。
司馬相如・王褒・楊雄・班固・傅毅・張衡・蔡邕といった著名な学者の文章や辞賦をはじめ、当世の優れた書簡も含め、益州にあるものにはほとんど目を通し、研究するほどでした。
また、この頃には太子である劉璿の学問にも関わっていたようで、その様子について、学者の孟光から質問を受けたりもしています。
この時に郤正が「太子は世継ぎにふさわしく、忠孝の道を修めています」と形式的に返答をすると、孟光が「今は乱世なのだから、権謀や才知をこそ磨かなければならない」と述べ、郤正はそれに同意した、という逸話が残っています。
黄皓の隣に住んでいた
郤正は宮廷の役職について以来、宦官の黄皓の隣に住んでいました。
黄皓は劉禅に取り入って政治の中枢に食い込み、腐敗させ、蜀を衰退させた張本人です。
郤正はその黄皓の隣に30年も住んでいたのですが、黄皓からは、気に入られもしなければ、嫌われもしませんでした。
そのため、官位は六百石(中級)を越えることはなかったのですが、黄皓に告げ口をされるなどして、官職を追われることもありませんでした。
郤正はつまり、人畜無害な存在だったようです。
この頃に、能力がありながらもそれを充分に用いず、かといって黄皓に取り入って出世をし、人々に恩恵をもたらしもしないことを批判されました。
郤正はそれに対し、文章を書いて自分の考えを明らかにしたのですが、かなりの長文なので、最後に紹介します。
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