郤正の文章
郤正が蜀の官僚だったころ、才能のわりに働いていないと責められた時に、文章で返答をしています。
かなりの長文となりますが、最後に付記しておきます。
「ある人が私を批判して言った。
『前代の書物には、次のように記されている。
事は時に並び、名は功とともにある、と。
であるのなら、名と事は、前代の賢者にとって急務だったと言える。
制度をはじめて作り、規範を設ける場合、時機をとらえなければ成功せず、広く称賛を受けて名前を残すには、功績をあげて記録に留められる必要がある。
名はあくまで、功があってこそ、世にあらわれるものだ。
事もまた、時機の到来があってはじめて進行したり中断するものであり、身が没した後に名が忘れられるのは、君子が最も恥じるところである。
ゆえに、達人は道をきわめ、とらえにくい真理を探究し、天が示す運命の兆しを読み取り、人の世の盛衰を考察する。
そして弁舌家は説を述べ、智者は機に応じ、策士は計略を展開し、武人は威をふるう。
雲のように合わさり、霧のように集まり、風のように荒れ狂い、電のように飛ぶ。
そして時節をみきわめ、世から糧を取りこみ、身をかがめてから大きく伸び上がり、公を大切にして私を顧みず、一尺縮もうとも一尋(八尺)に伸び、ついには光を携えて輝きを発する。
今は三国が鼎立し、天下は不安定で、広大な四海のうちは災禍に見舞われている。
道義がふさがっていることは嘆かわしく、民衆の苦しみは痛ましい。
これこそまことに、聖人や賢者が救済におもむくべき時であり、忠烈の士が功業を樹てる機会である。
あなたは高く朗らかな才能と、玉のような素質を持ち、ひろく書物を読まれ、儒学に心をとめ、深遠なものをわきまえ、はかないものまでも極めておられる。
身を挺して命令を受け、宮中の密事を司り、詔勅を起草する役を引き受けられながら、九考(査定)によって他の職務に移されることもなく、ずっと宮中にあって、外に出られることがない。
古今の真偽を考究し、時務の得失を計算し、時に一策を献上し、たまに進言をなさって職責を果たしていると言い訳をし、俸給を盗み取っていると言われずにはすんでいる。
しかし忠誠を尽くし、胸の内を明らかにし、正しい言葉を述べて直言をし、民にも恩恵を施すという点では、われわれ身分卑しい者たちに、知れわたるほどにはなっていない。
ならばどうして、手綱を引いてくつわをゆるめ、車を回して道を変え、ゆったりとした車に乗り換え、馬を行かせ、深浅をみきわめて渡し場に向かい、平坦な道を求め、秋蘭の芳香を世にふりまき、われわれの希望に沿われないのか。
(ここでは黄皓に迎合し、周囲の人々に恩恵をもたらすことを要求しています)
それもまた立派な行いと言えるのではないか』
私はそれを聞いて嘆息し、言った。
『そのようにおっしゃられる通りに、物事が進むだろうか。
人の心が違うのは、それぞれに顔が違っているのと同じだ。
あなたの言葉は輝かしく麗しく、美しい上につやめいているが、見識は狭く、見える範囲だけに固執しておられる。
いまだ宇宙の形態について語り、万事の事象の精錬さを信じることができていない』
するとその人はあわて、あおむき、眉を上げて言った。
『これはどういう意味か。どういう意味なのか』
私はこれに答えて言った。
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