劉琰は劉備や劉禅に仕え、蜀の高位に上った人物です。
しかし取り立てて仕事はせず、劉備や諸葛亮の話し相手になっただけでした。
やがて魏延といさかいを起こし、泥酔して偽りを述べたので、諸葛亮に問責されました。
すると諸葛亮に平謝りをして許されましたが、後に妻と劉禅の私通を疑い、罪に問われて処刑されています。
この文章では、そんな劉琰について書いています。
魯国に生まれる
劉琰は字を威碩といい、魯国の出身でした。
魯国は豫州にあり、劉備が同地の刺史(長官)だった頃に、召し出されて従事(側近)になります。
同じ劉氏の出身であり、風流を理解し、談論が上手だったので、劉備から親しまれ、厚遇を受けました。
この後、劉備は各地を転々としますが、劉琰はそれに随行し、つねに賓客として側にありました。
蜀の高位につく
やがて劉備は益州を平定しましたが、劉琰はこの時に固陵太守に任命されます。
そして劉禅が即位すると、都郷候の爵位を与えられました。
そして位は重臣である李厳の次席となり、衛尉・中軍師・後将軍という高位を得ています。
さらに車騎将軍(軍の上から三番目の地位)にも昇進しました。
しかし国政には関わらず、一千人あまりの兵士を部下に持っていましたが、仕事といえば、諸葛亮に随行し、批評や議論をするだけでした。
地位が高まっても、劉備に随行していた時と、やることは変わっていなかったのです。
劉備に気に入られており、古株だったので高い地位についただけで、特に能力が評価されていたわけではないようでした。
贅沢にふける
こうして地位が高まった劉琰は、贅沢をしはじめました。
車馬や衣服、飲酒はいずれも豪勢で、召使い数十人はいずれも歌がうまく、音楽が得意でした。
そして全員に『魯霊光殿の賦』という、王延寿が宮殿の華美と荘厳さを称えた見事な詩を教え、暗唱させました。
このようにして、劉琰はその立場を、優雅な生活をすることに費やしたのです。
蜀と諸葛亮はこの時期、漢の復興のために力を尽くしていたわけですが、このような劉琰の態度は、おそらく好ましいものとは見られていなかったでしょう。
諸葛亮に詰問され、陳謝する
232年になると、劉琰は漢中で前軍師の魏延と不仲になり、でたらめを述べたので、諸葛亮に詰問されました。
すると劉琰は、諸葛亮に文書を送って陳謝します。
「わたくし劉琰は天性、中身のない人間で、素行が悪い上に酒乱の癖があります。
先帝(劉備)の代から物議をかもしており、危うく破滅するところでした。
明公(諸葛亮)は、私の国家を大事に思う一心によって、私の中にある穢れを許してくださいました。
そうして私を支えて救ってくださったおかげで、俸禄や官位を保って今日に至りました。
先日は泥酔をして、誤ったことを申し上げました。
それを慈恩によって忍んでくださり、司直の手に委ねられることもなく、私の身をまっとうさせ、命を保ってくださいました。
必ず己に克ち、自分を責め、過失を改めて命を捧げると、神霊に誓います。
ご命令がなければどこに行ってよいかわからず、顔向けもできません」
諸葛亮はこの弁明を受け入れ、成都に帰還はさせたものの、官位はそのままに据え置くことにしました。
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