魏に降伏した劉禅に付き添う
263年になると、蜀は魏の大将軍・鄧艾らに攻めこまれ、首都である成都にまで迫られました。
そして議論の末、魏に降伏することになりますが、この時の降伏文は郤正が書いています。
その文書は、次のようなものでした。
「長江と漢水に隔てられ、不思議な運命に導かれ、蜀の地をよすがとしてきました。
そして辺境に隔絶して割拠し、天運を無視しして居座り、そもまま年を経て、都と一万里を隔てたままになりました。
いつも思うことは、黄初年間(220-226年)、文皇帝(曹丕)が虎牙将軍の鮮于輔に命ぜられ、内密に詔を下され、三つの好条件が示されるという恩寵を受けたことがありました。
そうして門が開かれ、大義は明らかでしたが、不徳で暗愚な私は、先代の遺産をむさぼり、いたずらに年を重ね、ご教示に従おうとはしませんでした。
天威がふるわれ、人も鬼神もみな、優れた人に帰順するのが定めですので、皇軍に対し、恐れおののいています。
神軍のおられる場所に、態度を改めて従い、ご命令に服さずにはいられません。
すぐに将たちに戈を放り出し、鎧を脱ぐようにと命じ、官庁や倉庫に対しては、金銀を失い、破壊するようなことがあってはならないと命じました
民衆は野に満ちており、余った食糧は田畑にありますが、後に施される恩恵を待ち望み、民の生命を守って下さるものと信じています。
伏して考えますに、偉大なる魏は恩徳と教化を施し、伊尹や周公旦のような賢者を宰相にし、寛大な心で、罪のある者たちを許しておられます。
謹んで侍中の張紹、駙馬都尉の鄧良に、印綬を奉じさせ、ご命令を請う所存です。
そして真心を披瀝させていただきます。
つつしんで忠誠を捧げ、この身の存亡は、裁きのままに従います。
柩を背にしてお側近くにおりますので、これ以上はくどく申し上げません」
この文書の効果もあって、鄧艾は降伏を受け入れ、劉禅の身の安全が保証されました。
劉禅に従って洛陽に赴く
しかし不安定な情勢は続き、264年の1月になると、魏の大将軍・鐘会が成都で反乱を起こしました。
劉禅は洛陽に移ることになっていましたが、混乱した中でのあわただしい出発だったため、蜀の大臣たちの中で、劉禅に随行するものはいませんでした。
そんな中で、郤正と殿中督(皇帝の侍臣)・張通の二人が、妻子を残して単身で随行します。
劉禅は郤正を頼り、その補佐を受け、落ち度なくふるまうことができました。
このため、深くため息をつき「郤正を知ることが遅かった」と悔やんだと言います。
郤正は蜀が滅亡してから、初めて目立つようになったのでした。
司馬昭の宴席における劉禅の話
劉禅は洛陽についてから、魏を支配する司馬昭に招かれ、宴会に参加します。
その席で司馬昭は劉禅のために、蜀の音楽を演奏させました。
すると劉禅の側にいた元の蜀臣たちは、いたましい思いにかられます。
しかし劉禅だけは機嫌よく笑い、気にする様子を見せませんでした。
すると司馬昭は腹心の賈充に向かい、「人はこれほどまでに鈍くなれるものなのか。
諸葛亮が生きていたとしても、この人を補佐して国を保つのは不可能だったろう。
ましてや姜維などでは、とても無理だ」と言いました。
すると賈充は「そうであったからこそ、殿下が蜀を併呑することができたのです」と答えました。
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