郤正 魏への降伏文書を作成し、劉禅に随行した蜀の文学者

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帝(古代の賢帝)は面従を戒め、孔子はご機嫌を取ろうとする者をとがめた。

あなたの言われるようなことは、私も考えていたことなので、この問題について議論し、釈明をしよう。

太古の昔、原初の世において、三皇は天の意志にこたえ、五帝はお告げを受け、夏・商の時代へと継承された。

それらのことは過去の記録に残っている。

やがて姫氏(周)が衰え、道義が廃れると、戦国の覇者が王室を助けた。

しかしえい氏(秦)は残虐で、他国は呑まれ、かみ砕かれた。

その時、縦横の策士たちが雲のようにわき起こり、詐術を用いる者たちが、星のように多数あらわれた。

そしてまやかし者どもが蜂のように群がり、狡知を用いる者たちが、草が萌えるようにして現れ出た。

ある者は真実を装って虚偽を飾り、ある者は邪心をもって栄誉を求めた。

ある者は道理をわきまえたふりをして君主に取り入ろうとし、ある者は技を示して自らを誇った。

正義に背き、邪悪を崇拝し、公正を放り出してへつらい、忠義には中身がなくなり、道義の概念は普遍性を失った。

ゆえに、商鞅しょうおうの法治主義がきわまると、義は敗れて悪がはびこり、李斯りしの道理に基づく政治が失敗に終わると、たちまち邪悪が勝利した。

(商鞅・李斯はいずれも秦の隆盛を支えた宰相です)

呂不韋りょふいは大きな勢力を築いたが一族が滅亡し、韓非子かんぴしは弁を立てたが処刑された。

(呂不韋は始皇帝に追われた宰相で、韓非子は始皇帝に仕えたものの処刑された思想家です)

それはどうしてだろうか。

利益がその心を変え、寵愛が目をくらまし、きらめく龍の印を身につけ、麗しい車馬と衣服を用い、ひとときの幸運といい加減な利得にひかれ、道に背いて不正を働き、邪悪な迷妄に陥った。

そしてしたい放題をしたあげくに、車の鈴の音が響かぬうちに轅の側に転落し、庭先に足を踏み入れないうちに棟木が折れ、垂木たるきがくつがえるようにして、身を滅ぼしたのだ。

天がその魂を取り上げ、地がその恩沢を縮め、人がその身を葬り、鬼がその額を狩り取った。

初めは高い丘に登ったが、終わりには深い谷に転落し、朝には血色がよかったが、夕には魂が枯れてしまった。

ゆえに賢人や君子は周到に用意し、将来に思慮をめぐらし、過ちを畏れ、世俗から超然とし、泥の中で尾を引きずることを選ぶようにして、汚濁の世における栄誉は汚れたものだとして、退けたのである。

彼は主君を軽んじ、民を侮り、時務を疎かにしたのだろうか。

えき』は「行くも止まるも、時に応じて行え」と戒め、『詩経』は置かれた状況に安んじ、慎み深くすることを称えている。

それは神のおぼしめしであり、道理からしても、そうするのが当たり前だからである。

わが大漢は、天命に応じて民の求めに従い、政治が盛んになり、光り輝くことは春のようだった。

伏しては大地の法則にのっとり、仰いでは天界の現象を模範とした。

おおいに恩沢を施して世の中を明るくし、豊かで芳醇な教化を施し、君臣ともに法に従い、それぞれに本分を守った。

天子は人に相談し、意見を受け入れる度量を示し、臣は政治を補佐し、責任を果たした。

士人の中に、表面だけを飾って寵愛を受けようとする者はおらず、民は孝行を実践し、輝きを放ちながら努力を重ね、忠義によってもたらされる益を大事にした。

しかし、道には盛衰があり、物事には興廃がある。

音が聞こえる時があれば、静寂の時もあり、日が当たる時もあれば、影に隠れる時もある。

陽の気は秋に衰え、陰の気は春の初めに抑えられ、義和(太陽)が去れば望舒ぼうじょ(月)が後に続き、運気が隠れると、日の光が降り注ぐ。

後漢の沖帝・質帝が夭折し、桓帝・霊帝が堕落して失政を行うと、英雄が雲のように起こり、豪傑たちが世を覆い、家々は異なる考えを抱き、人々は異なる意見を持つようになった。

すると、権謀家たちは胸に秘めた術策を用い、詐欺師どもはいい加減な言葉を述べ立てるようになった。

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