劉禅をたしなめる
これとは別の日に、司馬昭は劉禅に「時には蜀のことを思い出されますかな?」とたずねました。
すると劉禅は「ここは楽しいので、蜀を思い出すことはありません」と答えます。
郤正がこれを聞くと、劉禅に会見を求めました。
そして「もしも今後、同じ質問をされたならば、どうか涙を流しつつ、『先祖の墓が隴・蜀にありますので、西を向けば心が悲しくなり、一日とて思い出さない日はありません』とお答えになり、目を閉じて下さい」と言いました。
劉禅の態度をみかねて、郤正はそのように助言をしたのでした。
すると司馬昭が再び同じ質問をしたので、劉禅は教えられた通りにふるまいます。
これを見た司馬昭は「実に、郤正の言葉通りにされましたな」と言ったので、劉禅は驚いて目をみはりました。
そして「おっしゃる通りです」と言ったので、側にいた者たちはみな笑います。
劉禅がこんな調子だったので、補佐をする郤正は大変だったことでしょう。
一方において、劉禅は取るに足らない人物だということがわかり、危険視されることもなく、天寿を全うすることができたのでした。
爵位を得る
やがて単身で劉禅に随行し、補佐を続けた郤正の行為が世間から称賛されるようになり、関内候の爵位が与えられました。
そして安陽の県令となり、ついで巴西郡の太守になるなどして立身します。
その時の詔勅は、次のようなものでした。
「郤正は昔、成都にいたころ、滅亡に直面しても節義を貫き、忠節の道を外れなかった。
任用をされると、心を尽くして職務に従事し、治績をあげた。
よって郤正を巴西の太守に任命する」
郤正はこの後、278年に亡くなっています。
郤正が著述した詩・論・賦のたぐいは、百篇にもなりました。
郤正評
三国志の著者・陳寿は「郤正は絢爛たる文辞を用い、張衡や蔡邕を思わせるところがあった。
それに加え、出処進退には君子がみならうべきところがあった」と評しています。
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