劉邦は名もなき男として生まれながらも、戦乱の時代に頭角をあらわし、一代で漢の皇帝にまで上り詰めた人物です。
しかし劉邦は特別に秀でた軍事能力も、政治力も備えておらず、血筋も平凡で、財産もありませんでした。
にも関わらず、劉邦は不思議な人望を備えており、無名の頃から周囲には大くの人が集まっていました。
やがてはそのことが、劉邦を権力の頂きにまで押し上げて行くことになります。
この文章では、劉邦がどうして漢の高祖になれたのか、について書いてみます。
【劉邦の肖像画】
沛県の農家に生まれる
劉邦は紀元前256年に沛県で誕生しました。
沛県は中国の東部にある地域で、三国志の時代には徐州と呼ばれたあたりです。
劉邦の父は劉太公といい、沛県で農家を営んでいました。
劉邦はその三男でしたが、家業を嫌ってふらふらと遊び歩いており、任侠の徒と付き合うなどして日々を過ごしていました。
このため、堅実に生活を営む父とは折り合いが悪く、また長兄の妻とも仲が悪かったと言われています。
そういった境遇のため、劉邦は家にはあまり寄りつかず、家族以外の人々とのつながりを頼りにして生きるようになっていきました。
沛の街で人気者となる
劉邦は沛の街の酒場によく顔を出しており、彼が店にいると、それだけで人が集まってきて店が満員になる、という事態が頻繁に発生しました。
この頃の劉邦は身分もお金もなく、ただ一個の侠客であるに過ぎませんでしたが、すでに人を引きつける魅力を備えていたようです。
それには天性のものもあったでしょうが、おそらくは劉邦自身も、どうやったら自分の周囲に人を集めることができるだろうか、と考えて行動していた面もあったと思われます。
実家の農家を手伝う気はなく、家族からの支援は期待できない状況で生きていかないといけなかったわけで、そのためには人に好かれることが大事だ、と考えていたのでしょう。
こうして劉邦が沛で人気者になるにつれ、県の役所に務める蕭何や曹参といった役人たちも、劉邦に一目を置くようになっていきました。
始皇帝を見て感心する
劉邦はある時、労役を果たすために秦帝国の都・咸陽に赴いたことがありました。
そして通りかかった始皇帝の豪華な行列を見て、「大丈夫(立派な男)たるもの、あのようにならなくてはいかんなあ」と感心した、という逸話があります。
この時の劉邦は、まさか本当に自分が皇帝になるとは思いもよらなかったでしょうが、立派なものに対し、素直にあこがれを抱いたようです。
一方で劉邦と覇権を争うことになる項羽は、地方を巡幸する始皇帝の行列を見て、「いつか、やつに取ってかわってくれよう」と発言しており、この点に両者の性格の違いがよく現れています。
呂公に見込まれて娘婿となる
劉邦が侠客としての生活を続けていると、やがて呂公という名士が沛に引っ越して来ました。
そして蕭何の仕切りで歓迎の宴が行われたのですが、あまりに多くの人々がやって来たので席が足りなくなり、進上する金額が少ない人たちは地面の上に座ってもらおう、ということになりました。
劉邦もこの宴席にやって来て、ほとんどお金を持っていないにも関わらず、「一万銭を進上する」と告げました。
その金額に驚いた呂公は劉邦を出迎え、上席につかせます。
蕭何は劉邦がそんな大金を持っているはずがないことを知っていたので、「あれはホラ吹きですよ」といさめますが、呂公はそれでも構わずに劉邦を歓待し、さらには娘の呂雉を嫁がせることにしました。
沛における劉邦の名声が向上する
呂公は人相見を得意としていましたが、劉邦の相はよほどに優れていたらしく、今は微賤の身でも、いずれは大きなことを成し遂げる人物であろう、と見込んだようです。
結果としてそれは的中しており、後に呂公は漢の貴族となり、娘は皇后として大きな権勢を手に入れることになります。
まさしく先見の明があった、ということでしょう。
名士の娘婿となり、一目置かれたことで、周囲からの劉邦を見る目が変わっていったものと思われます。
劉邦が沛で挙兵するに至る下地は、呂公が作ったものだと言ってもよいでしょう。
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