追撃するも、援軍がなく敗れる
項羽を追撃をすると言っても、劉邦の手元にある10万の軍勢だけで項羽を倒すのは困難でした。
このため、劉邦は先に斉王に封じた韓信や、項羽の後方撹乱にあたっていた彭越らに集結するようにと命令を出しました。
しかし韓信も彭越もこれに応じなかったため、単独で項羽と戦うことになった劉邦は敗北してしまいます。
この結果、劉邦は陽武という城に入って守りに徹することになりました。
項羽は盟約を破った劉邦に激怒し、消耗した軍団を率い、再び陽武で戦い始めます。
張良が韓信らの背信の理由を説明する
劉邦は韓信らがやってこなかったことに怒りを表しましたが、張良が彼らの心理を解説しました。
韓信や彭越は、劉邦が項羽を倒した後の地位を約束していないことを不安に感じていたのでした。
今は項羽が強大なため、劉邦は韓信や彭越を重用していますが、項羽を倒して用済みとなった時に、劉邦がどれほどの地位を与えるつもりがあるのか、その約束がなければ項羽を倒す戦いには参加できない、という気持ちを抱いていたのです。
これを聞いて劉邦は、まだ項羽を倒せるかどうかわからないのに、戦後の恩賞の約束など早すぎる、と反論します。
張良は、劉邦は既に天下の半分を制していることを指摘し、臣下たちから見れば、すでに多くのものを分け与えるだけの権限を持っているのに、恩賞を惜しんでいるように見えるのだと、立場によって見えている風景が異なっていることを劉邦に教えます。
これを聞いて劉邦は考えを改め、韓信には戦後にも引き続き斉王の地位を保証し、彭越には梁王の地位を与えることを約束しました。
この措置によって両者は勇み、多くの兵を率いて参戦することになります。
こうしてついに、項羽に勝利を収めるために必要な条件が、すべて整いました。
40万の大軍が集結する
韓信や彭越らは30万の兵を率いて垓下の付近に集結し、劉邦の軍勢と合わせて40万という大軍を編成しました。
これに対し、項羽の軍勢は疲弊して脱落した者が多く、10万ほどしか残っていませんでした。
この頃には、楚以外の地域はほぼ劉邦の支配下に落ちていましたので、これほどまでに兵力に開きが生じることになったのです。
彭城の戦いの後に張良が考案した、他の地域を制して漢の勢力を強め、楚を撹乱して項羽の力を弱める戦略が、結実したことになります。
決戦に勝利し、項羽を垓下に追い詰める
漢軍の総指揮は韓信が担い、自ら先鋒を務めました。
これに孔熙と陳賀という二人の将軍が従い、韓信の左右を固めます。
劉邦は10万の本隊を率い、後方で戦況を見守りました。
戦端が開かれると、韓信は先頭に立って項羽軍と戦い、わざと劣勢になって後退します。
そして楚軍が追撃して来たところで左右の軍勢が動き、楚軍を包囲する態勢を作り上げました。
3倍もの敵に包囲されては、さしもの項羽軍にも為す術はなく、大敗を喫して逃走します。
そして垓下に築いた防塁の中に籠もり、防戦を試みようとしました。
四面楚歌
この日の夜、防塁の四方から楚の歌が聞こえてきて、このために項羽陣営の者たちは、故郷の楚も劉邦の手に落ちてしまったことを知りました。
こうなってはもはや再起も期し難い状況であると悟り、鍾離昧や季布といった、項羽配下の優れた将軍たちも、闇にまぎれて逃げてしまいます。
残っていた8千の兵もほとんどが逃げ散り、項羽の身の回りにいるのは、わずか800の兵士のみとなりました。
この時の様子は「四面楚歌」としてよく知られていますが、誰の策だったのかはわかっていません。
人の心理の弱い面をつく作戦であったことから、発案者は陳平あたりではないかと思われます。
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