蒯通を探し出す
長安に帰還した劉邦は、韓信が処刑されたと聞いて残念がりますが、最期の言葉を聞いて激怒し、蒯通を逮捕するようにと命じました。
やがて蒯通は捕らえられ、劉邦の前に引き出され、処刑されそうになりますが、弁士らしくここで弁明を行います。
蒯通は、「当時は韓信の臣下だったのだから、韓信のためになるように助言を行うのは当たり前で、自分の行いは忠義によるものだった」と述べました。
これは正論であったため、劉邦は蒯通の反乱教唆の罪を許して解放しています。
このあたりの様子を見るに、劉邦は正しい理を説かれれば、それを素直に受け入れるところは変わっていなかったようです。
彭越が処刑されて釜茹でにされる
その後、梁王となった彭越も、謀反を企んでいると密告され、このために劉邦は彭越を捕らえ、王位を取り上げました。
彭越は蜀に流刑にされそうになりますが、「老年になってから辺境に送られるのはつらいので、故郷に帰って隠棲することを許してほしい」と呂雉に泣きつき、呂雉はこれを受け入れたふりをしました。
しかし劉邦に、彭越のような危険な人間を生かしておいては将来の禍根になると説き、これに押し切られる形で、劉邦は彭越を処刑しています。
韓信の時といい、功臣たちの命を奪うのに熱心だったのは呂雉の方で、劉邦は権力は削減しても、命までは取る必要はないという考えを持っていました。
しかし呂雉に強く迫られると、これを退けない程度の思いではあったようです。
やはり、功績があって自分に尽くした相手でも、生かしておくことの危険性は劉邦も感じていたのでしょう。
劉邦のこのあたりの仕打ちはひどいものだと言えますが、一方でこれは、韓信や彭越らが垓下において、王位を約束されなければ参陣しなかったことで、劉邦への忠誠を貫徹しなかったことの結果なのだも言えます。
彭越の遺体は防腐のために釜茹でにされた上で、塩漬けにされて切り刻まれ、見せしめのために諸侯に配られました。
呂雉は権力欲が強く、残忍な性質を持っていましたが、この頃からそれを露わにしており、劉邦の死後に漢の実権を掌握し、暴虐を働くことになります。
英布が反乱を起こす
彭越の肉を受け取った英布は、韓信も彭越も処刑された今、次は自分が粛清されるのではないかと疑うようになります。
このため、英布は反乱の準備を進めますが、臣下にこの計画を密告され、追い詰められて決起しました。
劉邦はこの頃には、長年の戦いの影響によって体調を崩しており、皇太子に討伐を任せようとしましたが、呂雉にいさめられ、自ら軍を率いて英布の元に向かいました。
劉邦は英布と対峙すると、「なぜ反乱を起こしたのか?」と問います。
英布が傲然と、「皇帝になりたいからさ」と答えると劉邦は激怒し、英布の軍勢に挑みかかりました。
英布は項羽に仕えていた時代から猛将として知られた人物でしたので、激戦となり、劉邦自身も矢を受けて負傷してしまいます。
しかし最終的に英布は敗れ、妻の兄弟を頼って落ち延びましたが、かかわり合いになることを避けられ、やがて逃亡中に殺害されています。
こうして軍事面で大きな功績があり、王になった将軍たちは、ことごとく誅殺されました。
この劉邦の一連の粛正は、後世から批判されることが多いのですが、漢の天下を安定させる上で効果をあげたのも事実で、一概に論じるのが難しい問題でもあります。
病に倒れ、盧綰の謀反の噂を信じる
劉邦はこの時に追った矢傷が元で、病床に伏すようになりました。
この時に、燕王となった盧綰が謀反を企てているという告発がなされ、劉邦は幼馴染で、親友でもある盧綰を討伐することにします。
この頃の劉邦は、病によって錯乱していたようで、もうひとりの幼馴染である樊噲に討伐を命じるという、むごい措置を取りました。
しかし樊噲もまた謀反を企んでいると讒言するものがあり、これをも信じた劉邦は、陳平に勅命を降して樊噲を捕らえさせています。
劉邦は死を前にして、支離滅裂な行動を取っていますが、疑われた盧綰は、「陛下は病のせいで気が動転しているだけだ。病から回復したら詫びを入れる。そうすれば許してくださるだろう」と劉邦を信じる姿勢を維持しました。
しかし、間もなく劉邦が病のために没し、諸王の廃絶に執念を燃やす呂雉が実権を握ったと知ると、将来に絶望して匈奴の元に逃亡し、こちらでも王に封じられました。
劉邦の死によって樊噲は釈放され、あやうく幼馴染同士で血を流し合う事態は避けられました。
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