劉邦はどうして項羽を討ち破り、漢の高祖になれたのか?

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人事案を言い残す

劉邦の病は、紀元前195年には非常に重くなり、もはや回復が望めない状況となりました。

このため、呂雉は劉邦亡き後の丞相じょうしょう(首相)の人事についてたずねています。

劉邦は「蕭何に任せればよい。その後は曹参そうしんがよかろう」と答えました。

呂雉がその先のことをたずねると「王陵おうりょうがよいだろうが、真面目すぎるので陳平を補佐につけるがよい。しかし陳平は切れ者でありすぎるので、全ては任せないように。その後は周勃しゅうぼつがよいだろう。彼は社稷を安んじる者だ」と述べました。

呂雉がさらにたずねようとすると「お前はいつまで生きるつもりだ。その後のことはお前には関係ない」と言いました。

この時の劉邦の人事案は、後にすべて実行されており、予言のような力を持つことになります。

こうして死後の措置を終えた後、劉邦は死去します。

享年は61でした。

皇太子の劉盈が後を継ぐものの、呂雉が実権を握る

劉邦の死後は、皇太子の劉盈りゅうえいが継ぎますが、生まれつき優しい性格の持ち主で、平和な時代の皇帝にはふさわしい人物だったと言えます。

しかし、皇太后となった母の呂雉に抑え込まれ、彼女が政敵を残虐な方法で処刑するのを目の当たりにして衝撃を受け、やがて政務を放棄するようになります。

そして酒に溺れるようになり、わずか23歳で死去してしまいました。

呂雉は遺児の少帝きょうを即位させ、呂氏一族を引き立て、陳平や周勃らの元勲と協力して漢の統治を行おうとします。

しかしその残忍さは収まらず、劉邦の庶子で、王となっていた者たちを暗殺し、反抗的だった少帝恭も殺害したことで、元勲たちの心が離れ、反発を受けるようになりました。

呂雉が死去し、周勃らが劉氏の社稷を守る

陳平や周勃らは自分たちも暗殺される恐れがあったことから、呂雉から遠ざかり、統治の仕事にもほとんど携わらなくなっていきました。

呂雉は自分の行状が宮殿の荒廃をもたらしたことは自覚しており、日食が起きたのは自分のせいだと述べたり、悪夢を見ると少帝恭の祟りを受けている、と信じるようになるなど、弱気なところを見せるようになっていきました。

呂雉は老いると、死の前に甥の呂産らを高位につけ、元勲たちの動向に気をつけるように、と言い残して死去しました。

呂雉が死去すると、間もなく周勃や陳平は、諸国に残る劉氏の王と協力してクーデターを起こします。

そして恵帝の異母弟で、代王であった劉恒を皇帝に擁立しました。

この時に、呂氏の血を引くものたちはことごとく処刑され、宮中から一掃されています。

こうして呂氏の専横は終わりを告げ、劉邦が予測したとおり、周勃が社稷(国家)を安定させることに成功しました。

劉邦は自分の死後の呂雉の専横と、その滅亡までもを予測しており、それゆえに「周勃が丞相となって以後のことまで気にするな」と呂雉に告げたのかもしれません。

ここから漢は発展を続け、新の簒奪を挟み、400年の長きに渡って劉氏の王朝を形成することになります。

劉邦はその初代として、「高祖」という号を贈られ、その名を歴史に深く刻みました。

劉邦という人物

こうして見てきた通り、劉邦は個人としての才覚は乏しかったものの、優れた人材を活用する術に長けており、このために秦が崩壊した後の戦乱を制し、漢を建国することができました。

一方で、皇帝となった後は粛正が目立っており、このためにやや評価を下げています。

しかし、国家の運営そのものは順調で、蕭何や曹参といったすぐれた丞相を指名したことで、中国大陸は戦乱で受けた痛手を癒やすことができ、やがて順調に発展を遂げていきました。

韓信や彭越らの粛正も、すでに述べた通り、漢に安定をもたらした側面もあり、道義的に問題はあっても、一概に否定はできません。

劉邦は、目的のためであれば道義や倫理を平然と踏みにじることもあり、その結果として国家の建設と維持に成功していることから、世の常識にとらわれずに果断に行動できる、王者の器を持っていたのだと見ることもできます。

築いた王朝が安定し、長く続いた結果からみて、張良がかつて述べた通り、劉邦は実に「天下の英傑」であったと言うことができるでしょう。

劉邦が築いた「漢」という国の名が、「漢民族」の語源となるほどに、後世の中国に対しても、大きな影響を及ぼしています。

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項羽と劉邦の対決を描いた司馬遼太郎の小説です。
弱者であるはずの劉邦が、いかにして項羽を討ち破ることができたのか、その過程がよくわかる構成になっています。
時代の変わり目における、人物群像の物語としても秀逸です