彭城を占拠する
項羽はこの事態を知ると、傘下の九江王・英布に対し、彭城に援軍を差し向けるように命じます。
しかし、英布は病気にかかったと称してこれに従わず、彭城はわずかな守備兵に守られているだけの状態になりました。
劉邦たちは大軍をもってこれを軽々と討ち破り、彭城の占拠に成功します。
しかしこの時の軍団は連合軍であり、劉邦と同格の王たちがそれぞれに指揮権を持っていたため、咸陽の時とは違い、収拾のつかない事態に陥っていきました。
連合軍は略奪を行い、城を荒らした上で、毎日酒宴を開いて酒浸りになるというありさまで、劉邦も諸侯をまとめるためにこれに参加しました。
こうして、項羽に勝利したわけでもないのに、早くも連合軍は堕落していきます。
これはひとえに、連合軍の指揮系統がしっかりと構築されていなかったことが原因であり、数が多いだけの烏合の衆であったと言えます。
項羽の攻撃によって20万が討たれる
彭城が陥落したことを知った項羽は激怒し、斉と停戦した上で、3万の精鋭を率い、急ぎ取って返しました。
そして連合軍が酒浸りになっていることを知ると、夜明けまで城の付近で待機します。
そして飲酒をした連合軍が、泥酔して眠りこけているところを急襲し、城内に攻め込んで10万あまりを討ち取りました。
連合軍が城外に逃れると、項羽はこれを追撃し、睢水に追い詰めて殺戮し、ここでも10万の兵が失われています。
あまりに多くの兵が殺されて流されたことから、川がせき止められてしまったほどだった、と言われています。
韓信は「匹夫の勇」と評しましたが、項羽の戦場における強さは、まぎれもなく本物でした。
こうして大敗を喫した連合軍は崩壊し、劉邦も命からがら逃走することになります。
馬車から子どもたちを突き落とそうとする
劉邦は彭城から撤退するにあたり、故郷の沛に立ち寄りますが、すでに父や妻たちを項羽軍に捕らえられてしまっており、かろうじて長男の劉盈と、長女の魯元公主のふたりを馬車に乗せて逃走します。
しかし項羽の軍勢に追撃を受け、危うく追いつかれそうになると、劉邦は重量を軽くするため、子どもたちを馬車から突き落とそうとしました。
その度に御者で、劉邦の側近でもある夏侯嬰に止められて思いとどまっていますが、この行いから、劉邦の錯乱ぶりをうかがい知ることができます。
中国の一般的な倫理観では、親が子よりも大事にされますので、劉邦のふるまいが咎められることはないのですが、とても立派な行いだと言うことはできないでしょう。
このように、追い詰められると見栄も外聞もなく、本能的に動いてしまうところが、実に劉邦らしいとも言えるのですが。
英布を寝返らせるも、項羽軍に敗れる
劉邦はかつて占拠したことのある碭に留まり、敗残兵を集めて勢力を回復させますが、3万の項羽軍に無残に敗れたことで、彭城までついてきていた連合軍の諸侯たちに裏切られ、孤立してしまいました。
このため、新たに味方を得て項羽を牽制するため、彭城の救援に赴かなかった英布に対し、随何という使者を送って寝返りを促しました。
英布は秦兵の虐殺や、義帝の殺害など、項羽から汚い仕事をいくつもやらされており、与えられた報奨に不満を持っていたこともあって、随何の説得を受け入れ、劉邦陣営に鞍替えします。
しかしそれを知った項羽が送り込んできた将軍・龍且との戦いに敗れ、領地の九江は奪われてしまいました。
英布は妻子も置き捨てて逃げ出したのですが、このために家族は皆殺しにされてしまいます。
英布は劉邦に寝返った結果、領地も家族も失うことになったのでした。
こうして英布の寝返りは、劉邦にさほどの利益をもたらしませんでしたが、劉邦は敗残して自分のところにやってきた英布を迎え、自分と同じ規模の屋敷や調度を与えるなどして厚遇し、その心を慰めています。
このあたりの劉邦の措置は度量に満ちたもので、先の、馬車から子どもを突き落とそうとした時とは正反対に、立派なものだったと言えます。
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