劉邦はどうして項羽を討ち破り、漢の高祖になれたのか?

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豊を奪われ、奪還に苦戦する

劉邦は沛の3千の軍で周辺の県を攻め、勢力を拡大しようと計画します。

そして故郷であるほうの留守を雍歯ようしという武将に任せますが、すぐに彼に裏切られてしまいます。

劉邦はこれに怒って豊を攻めますが、強い抵抗を受けて撃退されています。

その後、他の勢力と協力して秦軍と戦いますが、これにも敗れており、当人の言葉通り、劉邦を頭領に担いだことで、沛の軍勢は敗北にまみれることになってしまいました。

劉邦軍は、初期の段階では優れた軍師も将軍もおらず、弱小勢力であったことになります。

劉邦は人を集めるのは得意でも、当人には優れた才腕は備わっておらず、この時期はなかなか軍事的な成功を収めることができませんでした。

また、地元の豊では、侠客であった劉邦の評判は決してよいものではなく、このために劉邦に支配されることを住民たちが嫌っていた、という事情もありました。

張良を得て豊を奪還する

劉邦軍はこうして何度も敗北しながらも、しぶとく活動を続け、やがてとうという街を攻め落とし、さらに下邑かゆうを降して兵力を増大させました。

そして1万を超える軍をもって豊を再度攻撃し、やっとの思いで故郷を奪還することができました。

この頃になると劉邦軍の動きが急によくなっていますが、それには理由がありました。

豊を奪還するまでの過程で、劉邦は張良という最良の軍師を得ていたのです。

張良の登場

張良は秦に滅ぼされた韓という国の遺臣で、かつては始皇帝の暗殺計画を実行に移したことがある、という過激な経歴を持っていました。

暗殺に失敗した後に逃亡生活を送りますが、その間に兵法を学び、戦略と戦術をもって秦を滅ぼすための力を身に着けていきました。

しかし張良は、大勢の人を従えて勢力を形勢するのは得意ではなく、自分の策を受け入れ、それを実行してくれる存在を必要としていました。

このため、各地の反乱軍の頭領たちの元を訪れるのですが、張良の献策に耳を貸すものはおらず、なかなか志を果たせないでいました。

やがて劉邦と出会って話をしてみると、劉邦は張良の言葉に熱心に聞き入り、その優れた智謀を認めて自軍に迎え入れました。

こうして仕えるべき主君を見出した張良は「沛公は天下の英傑である」とまで賞賛しています。

劉邦軍が急に勝利を得られるようになったのは、張良の策を劉邦が無条件に受け入れ、これを実行に移したためでした。

項梁の勢力下に入り、項羽とともに戦う

一方で、はじめに反乱を起こした陳勝と呉公は、大きく勢力を拡大するものの、秦が本格的に討伐軍を送り込んでくるようになると、苦戦をしいられます。

討伐軍を率いていたのは秦の章邯しょうかんという将軍で、優れた指揮能力を備えた人物でした。

陳勝も呉公も、元々が大軍を率いた経験のない者たちでしたので、章邯に対抗することはできず、何度かの敗戦の後、やがて部下に裏切られて殺害されてしまいます。

彼らが敗北した後、楚の反乱軍の中心的な存在になったのが、会稽かいけいで立ち上がった項梁こうりょうでした。

項梁はの名将・項燕こうえんの子で、こちらも劉邦と同じく、陳勝・呉公の乱に乗じて挙兵していました。

項梁は自身が優れた武将であり、そのうえ甥の項羽や英布えいふ鍾離眜しょうりばつといった優れた人材を抱えており、江東において急速に勢力を伸ばしています。

劉邦はこの項梁の元に身を寄せ、項羽とともに戦うようになり、義兄弟のちぎりも結ぶほどに意気投合しています。

劉邦と項羽は後に宿敵同士となりますが、この時点では同じ陣営で協力して戦う仲間でした。

ちなみに項羽はこの時まだ23才の若者であり、劉邦とは親子ほども年齢の差がありました。

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